7.鷹尾山信仰-2



鷹尾山信仰についてもう少し書いておく。

古来から庄内では、人が死ぬと魂はモリの山に籠もって汚れを浄化し、清まるとさらに高い山に登っていくことを繰り返し、最終的には鳥海山や月山に辿り着くと考えられていた。
「モリの山」とは近所の里山のことであり鷹尾山も含まれるものと思われる。
モリとは森、杜、守などの意だろうか?
鳥海や月山のような高い山は、格式的に昔から別格扱いだったのだろう。

私の住む地域にもかつて「モリ供養」と言う儀式があったことを知っていたが、今はほとんどの地域で廃れてしまったようだ。旧八幡町の菩提寺山では「亡利の山信仰」として今も行われているそうである。

元和8年(1623)かつて鷹尾山を追われた阿倍頼安二男の宗利が北俣に戻り、鷹尾山愛沢権現の別当となり再興を図ったとされる(元和2年という説もある)が、鷹尾山信仰の後期はこの頃から始まったのだと考えられよう。
天正19年の上杉による攻撃で、衆徒が各地に落ちていった日よりおよそ30年後のことである。

前述の菩提寺山周辺は、現在温泉や公園、野球場等の施設が集中する市民憩いの場だが、かつては鷹尾山の北の入口とされ、新井山とも呼ばれていたそうだ。
近くに小平(こでら)という小さな集落があるが、ここはかつて十八坊もあった山伏集落なのだそうだ。集落の入口に荒れ果てた薬師神社がポツンと建っている。今はとても小さな社だが、往事はもっと大きく立派な社だったのだろう。
また鷹尾山を挟んで反対側、旧平田町の新山にある新山神社が鷹尾山の南の入口だと言われている。


小平にある薬師神社跡

江戸時代から明治の初めまで、愛沢神社を奥の院とする鷹尾山修験が周辺農民の信仰を得て発展し、山伏達は小平と新山に集中し修験を積んだものと思われる。また信仰そのものがどんなものだったかを知る術はないが、その時代に山伏として修行を積んだのは一体何者なのか、という疑問を解くことは今の私には困難であり妄想するしかない。
阿倍頼安が仙北に落ちた際に同行した者達の末裔だとも考えられるし、各地に落ちていた者達が戻ったと考えることも可能だ。あるいは周辺の農民達の中から出たのかも知れない。それより興味深いのは再興し指導者として導いた者の存在だ。

現実として鷹尾山信仰はあったのだから誰かが導いたのは事実だろう。阿倍宗利一人でやったのか?
いやいや腹心の部下が必ず存在したと考えるのが自然だろう。
当時それだけの宗教思想体系を築いた未知の人物、その人となりを想像することは実に楽しいことだ。

今はゴルフ場になっている鷹尾山に先日初めて登ってみた(拙記録参照)が、そこからの展望の良さに正直驚いた。弁慶山地の山並みも実に魅力的かつ神秘的だったが、いつも見慣れた鳥海山が実にたおやかで、神々しく光り輝く姿には暫く絶句するほどの美しさを感じた。そこには確かに神仏の存在を確信させる何かがあった。
私のような不信心極まる者にしてそのような感情を抱いた事を考えると、往事の感受性豊かな人達がどのような思いで鳥海や周辺の山々を眺めたかは明白であろう。

いつの世も色々なしがらみが存在し、鳥海を含めた山々を縦横無尽に駆けめぐって修行することは難しかっただろうが、割合近くの弁慶山地、特に前衛としての胎蔵山や経ヶ蔵、注連石を含めた周辺の奇岩、農業神としての水源となる沢の遡行などを山伏の修行の場とする発想は、当然の選択だったのではなかろうか。以前山伏は山臥と書いたそうだ。つまり山に臥して修行するとの意味があるらしい。
鷹尾山からの眺望は弁慶山地が鷹尾山信仰修験の山であることを確信させるものであった。


鷹尾山から見た鳥海山

その頃の中心が宝蔵寺だったかは分からない。しかし吉野沢(きちのさわ)から三千坊谷地までの参拝ルートを示した資料を八幡町史の中から見つける事が出来た。
それによれば、小平からのものと、日潟(にっかた)水神社周辺からの二本の道があったそうだが今辿ることは密藪に阻まれ困難だろうが、周辺に想いを馳せながらいろんな場所を散策するのも楽しいだろう。また山中に往事の痕跡を求めて入る事は、山の病に罹った者には実に魅力的なことであるが、それには危険も伴い相応の技術が必要と思われ、私のような軟弱者には限界がある。悲しいことではあるが…。


明治初期に政府から発令された宗教改革、所謂、修験道廃止令や神仏分離令により鷹尾・小平山伏の多くは山を下り神職となって麓の集落に居住するようになったと言われている。
彼らの持っていた高い修験文化は、集落の人々の生活文化の向上に大きな影響を与え尊敬を集めたそうで、麓の村々の字名は定住した山伏の名が残った物とされている。それらの事実は如何に尊敬されていたかの証左でもあろう。
ここまで書いてみて何だかしっくり来ないものがある。うまく説明できないがそれは鳥海山の存在、いや、蕨岡の存在なのだが妙に引っかかるのだ。

蕨岡三十三坊が菩提寺山から移ってきた事は前述したが、真偽の程はさておき、地理的に見ても日光川を挟んですぐ隣の里山なのだ。↓の写真のように菩提寺山が肉眼で見える範囲だ。


蕨岡から菩提寺山を望む

天正19年の上杉焼き討ちの際に菩提寺山から逃げたのなら、日光川と荒瀬川の二本の川があったとしても、こんな目と鼻の先に隠れる場所があったのだろうかという疑問が残る。もっとも、ほとぼりが冷めるまで息を殺して潜み、上杉が去ってから出てきたと言えばそれまでなのかも知れないが、隣組のような近い場所で、反目することなくお互いの信仰組織を継続繁栄出来たのは、互いに親密な交流があったのではないかと考えるのが自然ではなかろうか。
もっと大胆に言うならば、蕨岡三十三坊と鷹尾・小平山伏は主従の関係にあったのではないか。

ちょっと飛躍しすぎのようだが、我が妄想は果てしなく続く…



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