8.鳥海信仰-2(蕨岡三十三坊)


蕨岡の仲良し観音様

弁慶山地からまたまた離れてしまったが、もう少し道草を食っていく。妄想は続くのだ…

飽海郡誌によれば、弘仁・貞観年間(810〜877)には、鳥海山頂の御本社は存在していたと記してある。
古代(570〜900年)の四百年間に鳥海は相当激しい火山活動を繰り返したものと言われている。江戸時代以降現在までは6回の顕著な噴火活動があったそうで、享和元年(1801)七高山と荒神岳(こうじんだけ)の間に新山が大噴火と共に形成された際には、参詣者が外輪付近で噴火の直撃を受け8人が亡くなったと言う。

中央政府の記録によれば貞観10年(868)に大物忌神社としての初見があり、同13年(871)には大物忌神社が山上に存在している事が記されているという。
鎌倉時代には上蕨岡に「蕨岡館」があったと言われ、かつて吹浦にあって女鹿の松葉寺に移された本地物である阿弥陀如来の胎内からは、歴応元年(1338)に製作された記録が見つかっている。

慶長17年(1612)最上義光が寄進した資料によれば、蕨岡は寺領、吹浦両所山は社領と表現され、蕨岡は龍頭寺を中心とした修験衆徒、吹浦は大物忌神社、月山神社を擁した神宮寺宗徒と理解出来るとされている。
鎌倉末期には修験者が鳥海と関係を持つようになったと思われるが、どの修験宗派に属していたのか、始めから鳥海山修験宗派として独立していたかは分かっていない。

天和3年(1683)に酒井藩が提出した調書には、鳥海山峯山伏69人とあり内訳は下記の通りである。
 蕨岡村松岳山宗徒 32人
 吹浦村両所山宗徒 25人
 新山村新光山宗徒  8人 ←興味深い
 下塔村剣龍山宗徒  4人
ここで興味深いのは新山村新光山の記述である。つまり新山神社はこの時点で鳥海山山伏として認識されていたのだ。


晴れた鳥海は神々しい

蕨岡三十三坊の記録は慶長16年(1611)の検地帳で全貌が見えてくる。これは何度も書くが天正19年(1591)の鷹尾山の焼き討ちから僅か20年後の事である。蕨岡衆が菩提寺山から逃れ移住したという伝説は、これらの記述から考えると前期鷹尾山信仰の宗教思想及び体系をそのまま蕨岡修験に移行したと考えられないだろうか。何もないところからわずか20年そこらで蕨岡の修験組織を造り上げる事は非現実的に思える。

突如として史実に登場した蕨岡三十三坊の地位は不動のものである。しかしそれらの修験組織を一から造り上げるには、膨大な時間と労力が必要と思われる。日の当たらないところで綿々と受け継がれて来たと考えることも出来ようが、三十三坊が鳥海山信仰を仕切り、周辺(特に川北)住民の絶大な支持を得ていたことはまぎれもない事実であり、信徒の範囲は庄内の川北全域に及び鷹尾山・小平山伏の勢力圏とも重なっていることを考えると、答えは見えたような気がする。


現在の登り口

蕨岡修験について調べたことを少し書いてみる。
蕨岡三十三坊の家の男児(長男)は、蕨岡修験の先途(せんど)として、生まれ落ちた瞬間から宿命付けられる。その修行は三歳の懐児から始まり、通過儀礼の最終段階が胎内修行である。これを無事修めると四度峰大先達となり、蕨岡に於いて一人前の修験者と見なされ父親に院号が与えられる。つまり先代の隠居が許されるのだ。

胎内修行は8月26日から10ヶ月に及ぶもので、初めの百日間は、ひたすら籠もる修行なのだそうだ。年末から正月にかけて公の場での籠もりや通夜を行い、3月25日から5月3日まで入峰(にゅうぶ)修行を行う。
修行する者の家では、饗宴が修行の区切りの度に行われ多額の費用を要したという。それらの費用は親類縁者や檀那と呼ばれる信徒が提供したそうだが、裕福なパトロンを持たない坊では大変な苦労をしたと言われている。

つまり蕨岡三十三坊が仕切る鳥海修験は、大勢の宗徒や裕福なパトロンが支え維持してきたもの、逆に言えば大勢の信者宗徒がいなければ維持できなかったものと言える。それ故に明治の宗教改革時に吹浦に山上権を奪われた時には、取り戻すためにすさまじい執念を見せたのだ。まあこれについては気が向いたら後で書いてみるが…
坊では宗徒や檀那あるいは親類縁者からの収入ばかり当てにしていたのではもちろんなく、午王加持(ごおうかじ)の祈祷と午王宝印を檀家に配ることが先途にとってはもっとも重要な仕事であり収入源だったという。

それらを配る際の順番や宿泊する宿は決められており、宿では最も上等な部屋に宿泊したそうだ。それだけの価値と権威が蕨岡修験者にはあったのだろう。それを表した逸話が今に伝わるので書いておく。
酒田の街では、殿様の行列が通る時に居合わせた人達は、平伏して通り過ぎるのを待つのが慣例だったそうだ。まあ時代劇などで見慣れた「下にぃ〜、下にぃ〜」の光景なのだろう。しかし午王宝印を配る山伏は、平伏する必要はなく、ただ道を譲るだけで良かったのだそうだ。
それだけ権力者にも認められた存在だったのだろう。


古い絵図を見つけた
(掲載に問題があれば削除します)

いつの世も権力と宗教の関係は複雑だ。この国に於いてさえ迫害や弾圧それに伴う反乱や暴動は枚挙にいとまがない。世界を見ても同様だろう。つまり権力者は宗教組織の扱いに気を遣っていたのだ。現代にもある意味そういう風潮があることは否定できないだろう。
前述の殿様の一件にしても、当時の権力者が蕨岡修験にある意味気を遣ってのことであろう。権力者は信仰組織を叩けば、いつか我が身に返ってくることを十分認識していたのだ。

そういう意味に於いて当時の権力者は、領民の絶大な支持を得た蕨岡信仰をある意味恐れていたと思う。それらを考え合わせると、蕨岡や吹浦を頂点とする修験組織は、かなりの力を持っていたと考えられ、その中でも蕨岡衆は、鷹尾山・小平修験、新山修験等の小組織とも緊密な繋がりを持っていて、厳格な縦の規律が存在していたと考えられないだろうか。
これらのことは、吹浦や矢島などの鳥海修験の組織にも当てはまるものと思う。

また修験道では一般に山伏は清僧と妻帯に区分され、前者は山上に住み、後者は山下に住んでいたそうだ。とある本によれば衆徒とは妻帯山伏のことだそうな。もちろん清僧山伏は妻帯しないものだったと言う。
この記述が鳥海修験にも適用できるなら、前述した酒井藩の調書に出てくる蕨岡や吹浦も新山も、全て宗徒と記述されてあるので「宗徒=衆徒」と考えれば妻帯山伏と考えられる。

ここまで書いて改めて読み返したら、何とも不思議で複雑な感情を覚えた。
信仰組織を生活基盤とするのは、人間だから霞を食って生きているわけではないので仕方ないことではある。また信仰組織を維持する上でも必要なことだと思う。蕨岡三十三坊の山伏達が妻帯山伏だとすれば、当然清僧山伏も存在したと思われる。これらの関係や如何に…

妄想は果てしなく続くのだ。



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