6.鳥海信仰 -1



鷹尾山信仰に直接関係はないが、少し横道に逸れて鳥海信仰についても簡単に書いておく。
鳥海信仰については多くの専門家が調査され著書も多く出ており、私如きが今更書くこともないのだが、事の成り行き上(大笑) 自分が興味あることだけを書いてみる。

九世紀頃まで国家(大和朝廷)の北端は、陸奥国の衣川(岩手県胆沢郡衣川村)と、日本海側では鳥海山であると中央貴族は認識していたようである。
鳥海山は大物忌神が宿る場所、つまり大物忌神とは中央にとって外敵である蝦夷(えみし)の進入を事前に察知し、噴火などの異変を起こして中央に知らせる神であると信じられていた。

しかしながら十世紀に入ると北方の守護神である大物忌神の役割は終焉する。
具体的には、天慶二年(939)に蝦夷の反乱を噴火により知らせたという「本朝世紀」の記述を最後にして、何故か歴史の上では北辺鎮護の神では無くなるのだ。
その後は地元領民が五穀豊穣を願う農業神へと変わっていくのだが…


鳥海山の修験については多くの著書が出ており、飽きっぽい性格なれど少し読んでみた。それらによれば各地の登山口に宗徒が集まり、修験集落を形成し対立していったようである。つまり「オラの方が一番」と言う今も昔も変わらぬ人間の業とでも言うのか、悲しい性による対立だ。宗教に序列と言う概念が存在すること自体私はおかしいと思うのだが、信者と自負する人達は、お布施を多く積めば自分だけは誰よりも先に救われると考えるのは、今も昔も変わらないことなのだろう。

余談はさておき、修験集落は秋田県側では小滝、院内、滝沢、矢島、山形県側では蕨岡、吹浦が知られている。吹浦と蕨岡の一宮争いはことに有名であるが、矢島と蕨岡の争いもあった。ここでは吹浦と蕨岡の事を少し記す。

  
蕨岡と吹浦の大物忌神社

鳥海山蕨岡修験(一山組織)は、三十三坊(内二坊は杉沢にあった)からなり、蕨岡の大物忌神社に門前町の姿が今も残っており、各家には○○坊と門口に表札がある。
江戸時代には矢島と山上権を争い幕府を巻き込んだ大事となるが勝訴し、明治維新の宗教改革までは鳥海信仰と言えば蕨岡が仕切っていたようである。

方や吹浦の方は二十五坊、三社家からなり両所山宮神に仕えていたそうだ。吹浦は鳥海山大物忌神と月山神(つきやまのかみ)の二柱を祀っていた。どちらかと言えば仏教色が強く真言宗と天台宗へ幾度も宗祀を変えているそうで、悪く言えば変わり身が速いのか(笑) 羽黒山の影響が強い感じがする。
明治の宗教改革に乗じて蕨岡から鳥海信仰の主権を奪い(表現が過激ですいません)一宮争いが始まるも明治13年に和解する。

小難しいことはこれくらいにして、なんだかんだ言っても鳥海信仰の原点は昔も今も「水」であるあることは間違いない。つまりは五穀豊穣を願うものなのである。
水のシンボルが龍であることは周知であるが、龍は鳥海山大権現の本地仏であり蕨岡の前坂の大木に今も薬師の大咒の札を下げた龍頭の藁綱が常に飾られている。
また鳥海山のシンボルは剣先とされ宇宙を表したものと考えられているそうだ。この剣先が意味深でもある(笑)


  
蕨岡の龍頭の藁綱
鬼門を向いて威嚇する龍のイメージか?

我々が今の時代に目にすることが出来る鳥海信仰の姿は、白装束を纏い山上にある大物忌神社本殿に詣でる人達の姿だが、以前に比べると少なくなったと感じる。むしろそう言った信仰心を持った登山者は月山の方が圧倒的に多い。

全国的知名度は出羽三山の方が比較できないほど大きく、また信者(観光客)も地元にとどまらず全国的に多い。そう言う意味においても鳥海は、古来から地元に根ざした信仰スタイルだったのではないかと考えている。あるいは各登山口の修験者達の抗争が激しく、大本は同じでも結果的に最後まで一つにまとまらなかったためかも知れない。

当時の鳥海修験の姿は、神社の5/3の例祭時にほんの少し見ることが出来ると言うが、一見の価値はあるものと思うが、私には春の農繁期でそんな余裕はない。


蕨岡大泉坊の長屋門
国持大名の江戸屋敷の格式を持つと言われている


ここで前述した「蕨岡宿坊(三十三坊)の人々は、元は別の場所に住んでいた」と言う伝説について…

蕨岡の事が史実に登場するのは、江戸時代中期の1650年代である。これ以前のことはまだ調べてないので分からないが、この頃には蕨岡の信仰スタイルは確立されていたと考える。
鷹尾山が滅亡した天正十九年(1591)との年代差を考えると、前述の伝説はまんざら嘘でもないような気がする。

種明かしをすると、前述の伝説は「飽海郡誌」に記載されているという。まあ筆者が実際に確認したわけではないので、違っていたら勘弁していただきたいが、とある本に載っていたのを偶然見つけたのが本当のところである。
それによれば、貞享四年(1688)の年号で、「蕨岡宿坊の人々は元は観音寺菩提寺に住んでいた」と書いてあるらしい。これを「三千坊谷地」と考えても何ら不思議ではない気がするのは我田引水か(笑) (これはあくまでも筆者の妄想の記録であるから悪しからず…)

そう考えると細い糸がどこかで繋がっている気がしてきた。
何だか山登りと段々離れていくのが怖い…



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