5.鷹尾山信仰 -1



最初に断って置くが、この文章は歴史的考察などでは決してなく、筆者の勝手な妄想である事をご理解の上ご覧頂きたい。

鷹尾山信仰に関する文献はほとんどない。想像ではあるがこの山には前期と後期の二つの歴史があったと考える。その境が庄内に於ける上杉家の行動(暴挙)だ。
前述したが上杉景勝が太閤検地の名の下に行った蛮行は、当時最上川以北で絶大な信仰勢力を誇った鷹尾山を、後世にひとかけらの痕跡すら残さないほど完全に焼き払い、歴史上から抹殺したと言われている。今では想像するしかないが、前期の鷹尾山は、羽黒山に匹敵するほどの霊場規模だったと思われる。


鷹尾山は古来、無境で無年貢の惣容入会地で山間、山麓の村々が中心になって利用していたと伝わる。私の住む地域でも最近(昭和30年頃?)迄は草刈り山と言って、農耕用牛馬の飼い葉採りや焚き物採りの村所有の里山があった。今風に言えば共同採草地だろうか。
「鷹尾山信仰とは江戸時代中後期に村人の間に広まったもので、中世には地名すら無かった」と書かれているのが進藤重記の「出羽風土略記」(宝暦十二年(1762))だそうで、これが鷹尾山に関する書籍としての初出だと言われている。
つまり、この書物には前期鷹尾山信仰について書かれてない。と言うことは知らなかったのか、あえて書かなかったのか今となっては知る由もないが、信仰自体が存在したことは紛れもない事実であろう。

江戸時代中期と言えば18世紀、どちらかと言えば近世に近いが、鹿島の阿倍家に残る資料では、先祖の盛任が奥州から鹿島に落ち愛沢神社(奥の院)に籠もったのが天喜4年(1056)で、出羽風土記が書かれた時代からおよそ700年前である。この頃から愛沢神社が存在していたのなら、上杉に破壊されたのが天正19年(1591)とされているから、鷹尾山信仰は全山焼き払われるまで500年以上の歴史があったことになる。これを前期と仮定するなら、江戸時代中後期に広まったと言われる後期の鷹尾山信仰は、同じ名称ではあるが中身はまるっきり違ったものと考えるのが自然だろう。

前期の信仰対象は地侍等の武運に関連した形而上的なもので、どちらかと言えば仏教(真言密教?)の色合いが強い物だったように考える。当時の寺の宗徒は僧侶とは名ばかりで、武装した集団であり各宗派で抗争が絶えなかったと言う記録も散見される。簡単に言えば独立した小国家的意味合いが強かったものであろう。
地方の豪族が苦労して守ってきた先祖からの財産を、上杉家が太閤検地の名の元に中央権力を利用して強奪に近い行為を繰り返したと言うのがどうも実態であったらしい。

鷹尾山衆徒にとって面白くないのは当然の感情で、自分達の領地を奪い返すため上杉軍の隙を虎視眈々とねらい続けていたところ、景勝が庄内を離れた隙に一揆を起こし、かなりの領地を奪い返すも、上杉本隊が急を聞いて駆け戻ると一気に形勢逆転し敗走したという。この時の仕置きで鷹尾山全山が破壊、焼き尽くされ、衆徒のほとんどは殺戮され、一部の者達が命からがら各地に落ちていった。故に当時の鷹尾山に関する記録は一切存在せず、細々と口伝として今に伝わっているのが実態のようである。

この時に本尊と宝印を持って逃れたのが、鷹尾山では勝福坊と名乗った山伏で、今は上安田にある鷹尾山勝福寺となっている。
本尊は阿弥陀如来で秘仏として厳重に保管されているとのこと。一度見てみたい気もするが、60年に一度のご開帳時しか拝めないらしい。
また、三千坊谷地の山伏達が落ちた先が青沢で、相蘇(あいそ)姓を名乗ったという話も岳友(みいらさん)から聞いた。
相は「ふたたび」、蘇は「よみがえる」の意だそうだ。


上安田の鷹尾山勝福寺


勝福寺付近から眺めた平坦な鷹尾山

NHKの大河ドラマ「天地人」では、上杉家の家風を「義」と「愛」で美化していたが、羽黒山に匹敵するほどの一大勢力を誇った集団を完全に抹殺し、歴史の闇に葬り去った事実は、いくら戦国時代とはいえ、現代社会の常識から見れば、信じがたい暴挙がまかり通った恐ろしい時代だったのだ。
当時このような悲惨な現実を目の当たりにし、明日のおのが命の果てさえ見えぬ民の不安と恐れを考えると、胸が締め付けられるような恐怖と憤りを憶える。
このような世相の中で、当時の民は一体何を救いにして生きていたのだろうか。歴史とは殺戮と破壊の繰り返しなのか…。


時は流れ平穏な江戸時代に入ると、領主は戦よりも新田開発に力を入れ実質石高を増やそうと努力した。結果潅漑用の水が不足し用水路の開鑿が進む。この頃の稲作が今のような水稲栽培だったかはわからないが、我田引水の喩えがあるように、農民にとって水は貴重な物であった事は今も昔も変わらない。荒瀬川、相沢川、新井田川等の水源が弁慶山地であり、山は自然に形而下的な農民信仰の対象となっていったものと思われる。

鳥海や出羽三山の信仰で、近世まで庶民の信仰対象として存続してきたのは、ひとえに山麓の農民達の生活と深く結びついていた結果だと考える。つまり後期の鷹尾山信仰は、山麓の農民達が造り上げ守り育てて来た、実生活に根ざした信仰物だと言えるだろう。

鷹尾山愛沢権現の別当として復興を図った阿倍頼安の二男である宗利が、仙北から北俣に戻ったのが元和8年(1623)とされている。おそらくこの後に海ヶ沢に現存する愛沢神社が栄え末寺を増やしていったものと思われるが、これらの末寺が相沢川沿いに点在しているのは当然として、一山越えた吉野沢にある宝蔵寺や、生石の延命寺とも密接に繋がっていたようである。

ある資料によれば、鷹尾山を中心とした麓の村々及びそこにあった神社や寺には一大ネットワークが確立されていたらしく、当然麓の村々は縦横無尽に修験道で繋がっていたものと思われる。
これらの事実は、かつての鷹尾山信仰を深く知る者達が蘇らせたと考えるのは乱暴だろうか。そう考えると小さな断片である伝説や、わずかに残された文献が何となく繋がってくるような気がする。

今は吉野沢にある鷹尾山宝蔵寺は、ある時期にどこかから移転して来たものと言われている。元あった場所は色々な説があり時期もはっきりしない。三千坊谷地にあったという説もあるし、北俣のどこかにあったという説もある。時期は上杉に破壊される前という説が有力とされているが、何となく腑に落ちないものがある。宝蔵寺の縁起帳によれば今から800年程前に創建されたとの記述があるらしいが、年代的に少し無理があるようにも思う。

しかしながら移転してきたのは紛れもない事実であり、阿倍家に残った資料などを考えると北俣説が有力なのではないか。では北俣のどこにあったのか? 中ノ俣と言う説もあるらしいがこれも???である。
などなど頭の中ばかりで考えていると、妄想ばかりが膨らみ眠れなくなってきた。
暇を見つけてゆっくりと周辺を歩いてみようと思う。


最後に真偽の程は定かでないが、気になる情報を一つ。

「蕨岡宿坊(三十三坊)の人々は、元は別の場所に住んでいた」という…



   前項へ   次項へ

   目次へ