3.庄内地方の有力者達の相関
                           (安土桃山から江戸時代)

暖かいコタツにばかり入っていると尻に根っこが生えてしまったようで、不精者の私は動く気が起きない。
自分は決して歴史好きな人間ではないが郷土史となると話は別である。自分の住んでいる場所のこととか、通い慣れた場所の史実を紐解けば、大概の人間は興味を持つものと思うのだが。


まずは、最上家と上杉家が覇権を争った時代…

そのころの地元の有力者達を列挙してみる。


1.武藤氏(大宝寺氏とも呼ばれる) (大宝寺城) 上杉派

 大泉荘の地頭で鎌倉以来の庄内の名族
 天正15年(1588)東禅寺筑前(前森蔵人)の裏切りにより武藤義興自害
 同、武藤氏滅亡



2.砂越(さごし)氏 (砂越城) 上杉派?

 元は大宝寺氏の庶氏であったが後に最上川を挟んで対立する程成長する(庶子では無いと言う説もあり)
 文明10年(1478)砂越氏雄(うじかつ)が幕府より信濃守を受領
 天正16年(1589)十五里ヶ原の戦いで東海林兄弟に陥れられ青沢に引退
 この時家老は青沢に残ったとされる
 以後奥州三春城主秋田安房守に仕え砂越甚左衛門と称すの記録あり



3.来次(きすぎ)氏 (観音寺城) 上杉派

 祖先は奥州藤原氏、清衡の弟、羽黒山に隠れ住むこと20代
 来次氏戻(淳祐)の時代に山を下り常禅寺村に落ち着く
 飛澤大権現の大旦那
 天正18年(1591)氏秀は城を出て領主上杉景勝の側近に奉公
 以後上杉家に仕え米沢に居を構える


R-345荒瀬川付近から眺めた観音寺城跡

4.池田氏 (朝日山城) ← 金生沢の東方にあり  最上派

 平家の落人で諸国彷徨の後、旧八幡町泥沢に移住する
 朝日山五十人衆(盛周配下)を擁す
 当時の所領は北境〜生石〜横代まで
 検地反対一揆の仕置軍により処罰、最上領の鮭延城に落ち延びる


生石東方から眺めた朝日山城跡
背後は鷹尾山


5.阿倍氏 (磐井出城) 最上派

 盛任が奥州から鹿島に落ち愛沢神社(奥の院)に籠もる。(天喜4年(1056))
 それから15代の後、頼安が太閤検地反対一揆に破れる(天正19年(1591))
 鹿島から青沢、升田、矢島を経て仙北の沼田に逃れる。
 頼安二男の宗利が元和8年(1623)北俣に戻り鷹尾山愛沢権現の別当となり北俣にて帰農。
 以後阿倍右馬之輔と代々名乗る




上杉景勝が領主の時代に太閤検地に反対抵抗した鷹尾山衆徒を中心に一揆が起こり、その仕置きで鷹尾山は全山跡形もないほど焼き払われ、有力者達は追放されたと言うのが通説である。
私見であるが、この頃の鷹尾山の庇護者は池田氏と阿倍氏だったと思われる。
砂越氏は飛鳥大権現、来次氏は飛澤大権現の大旦那だったらしく、鷹尾山の愛沢権現には深い関わりがなかったのではなかろうか。
武藤氏は川南の地頭で勢力外でありあまり関係ないだろう。


これらの地頭達と、中央及び地方の有力者達が入り乱れて勢力争いを繰り広げた結果、様々な武将や一族郎党が日本各地に落ちていったと言う。特筆すべきは、上杉景勝が太閤秀吉の名の下に行った検地は、越後勢が荘内を支配するための口実としてのものだったようで、抵抗する者たち(武士と農民の区別無く)には、容赦ない制裁が下され凄惨を極めたと伝えられている。今でもある地区では、幼子が悪さをすると景勝を呼んでくると脅されるほど、上杉家統治時の凄惨な記憶は子々孫々まで語り伝えられているようだ。

これらの諸氏と弁慶山地の関係は何かと問われると言葉に詰まる。
話は前に戻るが、私の興味の根源は注連石の存在である。初めて目にした時の興奮は忘れることが出来ない。そして「一体誰が???」と言う疑問が一緒に登った人達の共通した思いだったと思う。

注連石には鉄の剱が祀られていた。これの意味することとは何なのか。素人である私が調べ進める内にわかったのが前述の有力者達の存在である。そして、ほとんど全ての有力者達が滅んでしまったという事実と、それにまつわる数々の伝説…
そんなことをぼんやりと考えていたら、興味の対象がどんどんずれていった。それが正直なところだ。

当時の人々の山と神仏への想いがカオスのように渦巻く時空を感じるのだ。



ここで青沢を経て各地に逃れたと思われる諸氏を列挙してみる。

1.砂越氏 (家老が青沢に残ったとされる)

2.池田氏 (鮭延城に落ち延びる途中に???)

3.阿倍氏 (一族全員が仙北へ逃げたのか?)

と三氏が浮かび上がる。

あるいは…



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