2.弁慶山地概要

酒田市内やその近郊から天気の良い日に東方を眺めると名も知らぬ山々が蒼く連なる。私にとって毎日見ているそれらの景色は当たり前の物で、興味もへったくれもなかったのだが、ふとしたきっかけでそれが弁慶山地と呼ばれる山塊である事を知った。

弁慶山地とは山形県北部鳥海山南麓から南北に郡界沿いに連なる山塊で、主峰は弁慶山(887m)、南端が田代山(626m)で最上川に落ち込む。標高は600〜700m程の低山で、夏道は開かれておらず一部の藪山愛好家や沢登りのパーティーが遡行した記録が散見されるだけの静かな山域であり、地形図にも弁慶山地の表記はない。


この山域で私が登った事のある山は、主峰である弁慶山、注連石、経ヶ蔵山、太平山、胎蔵山、田代山などであるが、明確な夏道があるのは胎蔵山と経ヶ蔵くらいのものであった。
厳密な意味での弁慶山地のエリアは今もって良くわからない。ここでは私見ではあるが北限は青沢街道(R-344)東方は真室川との郡界とし、西方はR-345、南限も戸沢村との郡界としたい。

主峰である弁慶山の名称は、それぞれの地区で違った呼び方もあるようで、「大黒様」「ベンケイカン」「ベンケイカノ」「天狗の羽根」「天狗のコッパネ」「三ツ岩」などと呼ばれていると、最上山岳会の坂本氏は著書に記している。坂本氏の著書は色々参考にさせていただいた。

この山域にとどまらず東北の地名には、今でもアイヌ語がそのまま使われているものが多いと言う。一例を挙げると真室川に差首鍋(さすなべ)と言う地名がある。これは、chasi(砦、館)+nay(川)+pe(所) =「砦と川のある所」と言う意味らしい。
これらのことから、弁慶山地にも多くのアイヌ語による地名が残っていると考えられる。

前述の「ベンケイカノ」などは、坂本氏によればペルケイ(崩れて)+カム(被さる所)と言う意味ではないかと著書に記しておられる。
アイヌ語地名からの考察も出来たら面白いだろう。

また、この山域には伝説も多く残っている。中でも弁慶山の名の由来となった義経主従が通ったと言う伝説は興味深い。そう言う意味でも往事に様々な人達が行き来した峠道を辿るのも一興かと思う。
代表的な街道を下記に示す。


【青沢越え】

R-344通称青沢越えは、旧八幡町から荒瀬川沿いに遡るもの。郡界を貫く青沢トンネルを抜けると真室川町に至る。古来から内陸と庄内を結ぶ重要な交易路であったが、軍事的にも非常に重要なものであったらしく、数多の武将が悲喜交々通ったようだ。今般の起稿に当たり調べたのだが、中世の歴史も重要な要素であり実に興味深いものがあった。


【与蔵越え】

旧平田町坂本地区から戸沢村羽根沢温泉に抜ける与蔵越えは、現在田沢川ダムから整備された林道が延びている。旧道は坂本地区から入り与蔵沼を経て続いていたそうだが、現在地元の有志が復元に尽力されているらしい。ここも歴史的に重要なルートである。


【中ノ俣越え】

旧平田町中ノ俣地区から相沢川を遡り最上に抜ける道があったと言うが、今は痕跡だけが残っている模様。この道をたどるのは、私のようなへっぽこ中年には無理があると思われる。



地形的な事はさておき、この山域は山岳信仰と深く結びついており、調査の過程で避けて通れなくなった。
山岳信仰は鳥海山や月山が有名であるが、最も心惹かれたのが鷹尾山(たかおやま)信仰である。数多くの伝説が伝えられており妄想夢想は尽きない。しかし興味はあれど記録された書籍が乏しい(ほとんど無い)のが悩みと言えば悩みか…
そして時代の変遷と共に信仰も姿を変えていく。往事の人々が辿った心の変遷も興味深い。

ちなみに鷹尾山の場所は、今は酒田カントリークラブというゴルフ場になっている。2.5万分の1の地形図には、標高352mの三角点と少し北側に三千坊谷地と言う地名が見える。


前述したがこの界隈の歴史に関する資料は乏しく、中世以前の記録など皆無に等しい。古来からの言い伝えや古寺の縁起帳などを地元の歴史家が調査されたようであるが、書籍として誰でも目にすることが出来る物は限られている。
きっかけは2009年の5月に岳友と登った注連石(すみいし)である。ご一緒させていただいた皆さんに煽られ尻に火が着いてしまった。
微力でいい加減な調査ではあるが歴史的背景の概要を記す。


中世における庄内は中央の権力者に翻弄されたものだったようで、その最たるものが最上家と上杉家の争いだろう。
弁慶山に登ってみてわかったのだが、南北に伸びる弁慶山地は内陸と庄内を隔てる天然の要害のようなもので、峠道を除けば人の往来は不可能に近い。また庄内は北の三崎や南の越後との境も海岸線まで山の裾野が延びており、最上川や赤川の大河が悠然と流れ外界と隔絶している。
故に三方を山に囲まれ日本海が開けた庄内は、内陸部の諸氏にとって交易等を考えると魅力的な土地だったに違いない。

中世の庄内でも麓の小高い場所には山城や舘(たち)が多くあり、地侍が睨みを効かせていた。有力な地侍達は衝突を繰り返すが、これら各氏は保身のために最上や上杉と通じて謀略の限りを尽くしたものと思われる。その結果ほとんどの地侍は滅んだり日本各地に落ちていった。
これらの結果庄内でも戦が絶えず、多くの農民が戦場に駆り出され大変な辛酸を舐めたと伝えられている。

関ヶ原の後は最上家の領地となり、大きな戦が無くなりやっと平穏な世情となる。
新田開拓が盛んになり、その頃から弁慶山地一帯は地元農民の山岳信仰の対象となったようである。つまりは田畑を潤す水の源としての信仰である。
最上家改易後は鶴岡の酒井家の所領となり、その後支藩である松山の酒井家が明治維新まで治めた。

鷹尾山信仰は三千坊と言われるほど往事には相当の勢力を誇ったものらしいが、資料は皆無に近いほど残っていないが、わずかに伝説として今に伝わっているようだ。
注連石などのような奥地の秘所は、誰が作り誰が守ってきたのか今となっては知るよしもないが、私のような者には大変興味深いものがあり、妄想が膨らむばかりである。


以上が概要である。が、読み返すたび支離滅裂な文章に我ながら赤面し頭が痛い。と言うのも、調べ始めたらあちこちに興味の対象が飛び火し、自分でも何を目標にして良いのかわからなくなったのだ。

仮にも山屋の端くれ、いくら標高が低くても未踏の地を求めるのが本道なのだろうが、親の代からの天の邪鬼な性格は直しようがない。

この山域に800m以上の標高を持つ山は、弁慶山と八森の二つしかないと聞く。一つは何とか登れたが、当面の目標として八森を目指そうか、軟弱中年には困難な道のりだろうが…



東西非対称の険しい稜線

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