【白馬三山と五竜岳とおまけ】その1

【日 程】1999年7月21日(水) 〜 24日(土)
【山 域】北アルプス北部
【山 名】白馬岳、唐松岳、五竜岳、西穂独標
【天 候】7/21雨 7/22曇 7/23晴 7/24晴
【メンバ】単独
【コース】7/21 猿倉→白馬岳→白馬山荘泊
(概 略)7/22 白馬三山→不帰のキレット→唐松岳山荘泊
 7/23 唐松岳→五竜岳→遠見尾根下山
7/24 神城→松本→安房トンネル→新穂高温泉→西穂独標往復

注:記念すべき北アルプスデビューの記録です



プロローグ


「長年の夢」「積年の恨み」等々、人にはそれぞれに「想い」が存在し時間が停滞している。そしてある意味でそれを追い求めて暮らしている。それは物質であったり、形而上的な物であったり、価値のある物であったり、他人が見たらまるで価値のない物であったりする。それはあくまで個人的な「想い」もあり、時には複数の人達が共有する「想い」もある。
 その中で個人的なことに限定すれば「想い」というものは、時にとんでもない力を内面から湧き出させるものである。多くの人は恋という概念を想像すれば容易に想像出来るだろう。
 時には形を変え陰湿な行動を起こす人もまれには存在する。そう言う意味では、とても個人の倫理観念では押さえつけることの出来ないものではあろう。しかし、現実には「想い」すべてが実現する訳ではない。"Dreams come true"なんて、そうそうありはしない。でも、考えようによっては、まんざら嘘でもない。
 「想い」という粒子が積み重なり、限界を超したときに砂が崩れ落ちるように、一つのきっかけを以て「想い」を達成出来るときがやってくる。長い人生の一つの局面においては、時にそう言うフェイズがあっても良いように思う。
 あくまでも希望ではあるが、、、、、



  
第1章 猿倉から白馬へ、 


猿倉(6:20)---(7:15)白馬尻(7:25)---(9:40)葱平避難小屋(10:00)---(11:15)白馬山荘---(11:15)白馬岳---(11:30)白馬山荘


7月21日、早朝5時に宿で朝食を済ますと、主人の車に乗り込み猿倉まで送って貰う。麓の街では雨は降ってなかったが、どんよりと曇った空は水気を孕み、いつ大粒の雨が落ちてきてもおかしくなかった。案の定、猿倉が近づくに従って雨がぽつりぽつりと落ちてきて、猿倉駐車場に着いた頃には土砂降りであった。主人曰く「この雨は低い雲から降ってくるものだから、しばらく登ると雲を抜けるからきっと晴れますよ」
商売とは言え、口の巧いことこの上ない男のようだが、関西弁混じりのその言葉には不思議と説得力がある。まあ、ここで帰るわけにも行かず僕は諦めて村営猿倉荘に逃げるように駆け込んだ。ここで雨具を着込み完全武装で山に乗り込むわけだが、平日の早朝だというのに、どこから集まってきたのか、かなりの人でごった返している。いったいこいつらは何を考えているんだろうと思ったが、自分のことを考えるととても責める気にはなれない。むしろ同胞としての親しみを持つべきと考えを改めることにした。

ここから白馬岳の山頂まで宿の主人曰く
「お客さんの足なら6時に出発して2時頃までにはきっと着くでしょう」と言うことだったが、考えてみると8時間も掛かることとなる。
ガイドブックの参考コースタイムでは5時間20分、あくまでも休憩を含まない実歩行時間である。途中の休憩及び昼食時間を考えると2時というのは良い線ではないだろうか。などと考えている内に雨はますますひどくなり、誰も登り始めようとしない。しかし、意を決し僕は外に飛び出し緩やかな登りの続く登山道をゆっくりと歩き出した。

暫く行くと鑓温泉に向かう道を分け、その辺りから林道歩きとなり、あちこちに土建屋の工事中の看板が立っていて、この村もある意味で公共事業に依存しているのが理解できた。もっとも、少し前に土石流で犠牲者が出てニュースや新聞を賑わしたのも事実であり、北アルプスの急峻な山岳地帯を背景にした地形では、砂防工事という事業は僕等の街のおもちゃみたいな砂防工事と違い重要なものかも知れない。
白馬尻小屋までガイドブックのコースタイムでは1時間だが、実際は55分で到着、おいしい湧き水があるというので楽しみにしていたのだが、あいにくの天候と、ちょうどトイレのすぐ後に蛇口があったので、それほど美味しいとは思わなかったのが本当のところである。

ここから葱平まで2時間半の間、日本3大雪渓の一つ白馬大雪渓が3q続く、この辺で最初の雲を抜けたようで雨は止んだようだ。
標高は1650m、猿倉で1250mだからおよそ400m登ったことになる。辺りの登山者は皆アイゼンを準備している。
雪渓を見上げると、登山者の列が途切れ途切れの蟻行列のように、一本のルートを登っているのが見える。僕の最近の傾向として、標高1500〜1800mくらいまでは、体にその高度の環境が馴染んでいるのか割合、苦もなく足を運べるのだが、2000m付近になると何故かガクンとペースが落ちる。
今回は天気が悪く展望も望めないし、さっき止んだ雨もまた降り出し、またまた土砂降りとなり、足元を見ながら何処にも目もくれず、ひたすら歩くことに専念していたら、知らぬ間に葱平の避難小屋に到着していた。当然大雪渓では殆どのパーティを抜き去り、辺りには誰も人影が見えなくなって時折下山者が数人通りかかるだけであった。

一人きりの山行と言うものの利点はこの辺にあるように思う。つまり自分の好きなペースで誰にも気兼ねなく歩けるし、予定の変更も簡単だ。つまり、ここで嫌になって帰ったとしても誰も文句を言う人が無いと言うことだ。

9時40分に葱平避難小屋(2410m)に入り、さすがに腹が減ってきたので麓のコンビニから買ってきたおにぎりを頬ばる。小屋には単独の登山者と60過ぎの夫婦連れの3人、僕に釣られて皆食事を始めている。さすがに体が濡れているので黙っていると寒い。
話によるとこの辺は一面のお花畑と言うことだが、ガスって何も見えないし、あってもハクサンイチゲはまだ良いとして、よく知らない黄色の花が多い、個人的な好みとして、黄色い花はあんまりなのでひたすら歩く。そうこうしている内に村営頂上宿舎のシルエットが黒くぼんやりガスに霞んで見えてきた。もう少しで稜線だ。

10時52分で村営頂上宿舎(2665m)に到着、ここまで登ってやっとウルップソウに出会えた。始めて実際に目にしたのだが、なかなかおもしろい花であり、いっぺんで好きになった。カメラに収めるが、この先飽きるほど見ることになろうとは、、、、、

ここから白馬岳の頂上まで40分、標高差にして270m程か、頑張って最後の登りを試みる。11時30分に白馬岳(2932m)の山頂に到着。あいにく雨とガスのため眺望は得られず、記念の写真を近くの人に頼んで撮って貰い、早々に白馬山荘に下る。
受付で宿泊手続きをし、とりあえず雨具を脱ぎゆっくりする。この山荘は、1000人宿泊できる日本で一番大きな山荘であり、必要な電力はソーラーと風力でまかなっているというハイテク小屋だ。僕は2号館の3階の指定された場所に行き寝床を確保できた。先客がいて早々に鼾をかいて寝ている。階下に乾燥室がありストーブを付けていたので、濡れたものを一式持っていき天上から吊り下げて乾かす。ここは暖かくて気持ちがいいので暫く暖をとりながらうろうろしていると、続々と登山者が入ってきたので邪魔になるといけないので出て行き指定席へと落ち着く。

この日の山行は雨の中とはいえ標高差1700m、総歩行時間5時間、結構頑張れたのではないかと思う。実際これほどの高低差を一日で登ったのは生まれて始めてのことである。山小屋泊まり(営業小屋)というのもまた始めての体験である。

ここ白馬山荘では、展望スカイレストランと言うものがあって、生ビールが飲めるし、ショートケーキにコーヒーなどというものまで出てくる。まあ言うなれば街角のレストランが山の上にあるようなもので、ちょっと想像できない話である。それに山をやらない人には想像できないことかも知れないが、一番の感激は山の上で布団にくるまって寝れると言うことである。いくら他人の汗が染み込んでいても、そこは腐っても鯛、布団で寝れるとういうのは、ある意味でどこかの国の貴族にでもなったような気分にしてくれるものだ。
それから面白かったのは、白馬山荘というのは3号館まであるのだが建物の真ん中に県境が走っていると言うこと。つまり、片方が長野県側、もう片方が富山県側、固定資産税の配分に苦労しそうな気がしてきた。

小屋には続々と登山者が到着し、端から順々に埋まっていき満員状態になってしまった。当然皆びしょ濡れで荷物を置くと乾燥室に飛んでいく。僕が到着した頃はまだ結構余裕があったのだが、もう乾燥室はびっしり満杯、何も干せない状態のようで諦めてる人の方が多いみたいだ。館内放送で
「本日は悪天候の中、当、白馬山荘をご利用いただき誠にありがとうございます。ただいま各館の乾燥室は大変込み合っておりまして、雨具や靴を間違って持っていくお客さんが続出しております。乾燥室に入れるのは各自の衣服だけにして、雨具や靴など間違いやすい物は、御配布致しましたビニール袋に入れ各自、各部屋にて保管下さい」などと言っている。

野次馬根性の権化と化した僕は、早速階段を駆け下り乾燥室を見に行った。世間の、いや、関西の人間というのは、人の言うことは聞かないと言うが本当で、皆、禁止の雨具や靴を我先にストーブの近くに並べている。中に一歩入るや、その異常な湿度に圧倒される。僕がさっき干した衣服は何とか乾いたようなので取り込むが、厚手の靴下はいっこうに乾かないようなので、そのままにしてそこから飛び出る。これじゃ乾燥室の意味がないやと思いながら、自分の寝床に帰り本を読んで夕食までの時間を潰す。

僕等の夕食は5時50分、今日の夕食は3交代、つまり、40分間隔で3組の時間帯が割り当てられていると言うこと、最盛期には7回とか10回とかなんて話である。
 夕食前のちょっとの間ではあるが一瞬雲が切れ正面に剣岳が見えた。ここぞとばかりに表にカメラを持って飛び出すが、すぐにまた隠れる。ふと隣を見ると、相部屋というか隣の寝床を割り振られた体格の良い男の人がいた。軽く会釈し暫く見えない景色を待ちながら取り留めのないことを話していると、同じ山形県出身者であることがわかった。彼は米沢の出身で今は東京の世田谷に住んでいるらしい。去年所属している山岳会の合宿が、ここ白馬だったのだが、都合で来れなかったので今回一人でやって来たそうで、やはり白馬は初めてだという。何処か我が愚弟に似た風体をしているので親しみを持てた。東北の山々の話でしばし盛り上り、やがて夕食の時間が迫ってきたので、そのままで一緒に食事に向かう。

食堂ではアルバイトのお姉さんが元気な声で客を誘導し、席を割り振りしている。セルフサービスであり配膳室までゾロゾロと並ぶ姿は、どこぞの刑務所のようだ。メニューは、ご飯にみそ汁に鶏肉の照焼、ポテトサラダに漬け物少々と言ったところか、それでも満腹になった。食後早々に切り上げ寝床に向かう。
明日の天気もまた雨の様子。僕は宿の主人から天気が悪ければ唐松岳には向かわずに下山する事を勧められていた。そのことを話すと皆、明日のコースを心配していたようで、いろいろ話が盛り上がった。




第2章 風通しの良い部屋と人生について


白馬山荘(6:15)---(7:13)杓子岳---(8:10)鑓ヶ岳---(8:55)天狗山荘---(9:15)天狗の頭---(12:10)唐松岳(12:40)---(13:00)唐松山荘


 7月22日木曜日、白馬山頂は朝からガスが掛かり視界は効かない。昨夜はかなりの降雨量だったらしく何度も雨音で目が覚めた。これではとても不帰ノ嶮は越えられそうもない。僕は諦めてコース変更を決めた。
「いったい、何でこんなんなるんやろう」癖になった関西弁でひとりごちた。
 5時に朝食を食べ出発までにゆっくりする。どうせ急いだところで、どうなるものでもないし、鑓温泉なら5時間あればゆっくり下れる。そう思うと気持ちの張りが切れたようで動く気になれなかった。隣の世田谷君は朝日小屋までの道中が長いので一人早く旅だった。

 回りの人達も天気が悪いため、予定を変更して真っ直ぐ来た道を下る人や、僕と同じく鑓温泉に下る人など予定変更を考えている人が多かった。まあ、いつまでたっても天気は回復しないし、腹が減るだけだから僕も出発することにした。
折角ここまで苦労して登って来たのだから、白馬三山の頂だけは踏んで帰りたく、杓子岳(しゃくしだけ)、白馬鑓ガ岳(しろうまやりがたけ)の標識を目指した。本当は6時に出発する予定だったが、この日は6時15分までずるずると延ばした。

昨日と同じ雨具の完全装備で昨日通った村営頂上宿舎まで下る。この辺から杓子岳への登りかと思ったら、また下り、そしてまた登る。ピークで60才くらいの単独行のおじさんが、重たそうな三脚を背負っている姿に追いついた。二言三言、言葉を交わし、晴れていれば杓子岳が正面に見えるのにと残念そうに呟いていた。
そして道はまた下る。まるでスキーのショートターンのように右に左へと向きを変えながら、およそ30分、かなり下った。下りきるとまた登り、視界は効かないが、どうも杓子岳の登りのようだ。道が途中から二手に分かれている。多分、山頂を巻く道と山頂に向かう道だろう。多くの人達は巻道を行くようだが迷わず山頂経由に取り付く。

よく見るとガレ場の岩は赤い色をしている。珍しい色の岩石だ。植物もろくに生えていない。ジグザグに登行を繰り返し、上部は思ったよりも急な勾配でびっくりしたが、7時13分杓子岳(2812m)に到着した。回りには誰もいないので、ザックから三脚を取り出しカメラをセットして一人記念写真を撮る。眺望はまるでない。

昨日の白馬岳もそうだったが、ここも東西非対称の山、信州側は鋭い刃物でスパッと切り落としたように切れ落ちている。覗き込むが思わず後ずさりする。
杓子岳は南北に長い頂となっており暫く水平に稜線が続き突然下る。ガラガラとした道を少し下ると一輪のコマクサが見えた。思わず駆け寄りカメラを取り出しシャッターを切る。ふと見回すとかなりの数のコマクサがあった。この山行中初めてみるコマクサであり霧で湿った葉や花弁はとても綺麗だ。みっちり写真を撮る。

道は下りきり先程別れた巻道と合流し、まだまだ下る。折角苦労して登ったのにまた下るなんて勿体ないようにも思うが、そんなことを言ったらこの山では何処にも行けないのだ。下ったら登る。登ったら下る。この繰り返しが今回の山行のテーマだ。
ふと視線を上げると目の前に山のような荷物を背負った登山者のシルエットが見えた。近づくに従い明確に見えたのだが、何と女性の単独の様子、荷物は80リットルはあろうかと言う巨大なザック、どうもテント泊まりの縦走のようだ。
こんにちはと声をかけ、何処まで行くのか訪ねると、行けるところまでとしか言わなかった。「頑張って下さい」と言い残し抜き去る。

ここから鑓ガ岳への登りだ。結構きつい登りではあったが8時10分、白馬鑓ガ岳(2903m)に到着した。これで一応当初の目標である白馬三山は踏破したことになる。暫くすると、さっき追い抜いた女性がやって来たので記念の写真を撮って貰う。
予定ではここから少し下り、鑓温泉の分岐から左に折れ、急下降することになってはいたが、どうも面白くない、折角遠くからやって来たのに、稜線上の景色を一度も眺めずに帰るのはどうしようもなく悔しくてしょうがない。しかし、危険なことはしたくないし迷惑もかけれない。どうしようかと悩みながら下っていったら、あっという間に鑓温泉への分岐に到着してしまった。分岐の標識の前でウロウロしていると、一組のパーティーが通過していった。何処まで行くのか聞いてみると唐松までの様子。ここでまた考え込んでしまうのであった。

行きたいのは山々だが、怪我をしたら元も子もないし、山は逃げないし、いつかまた来るときもあろう。と言うのが結論だった。よし鑓温泉に下ろうと勢い込んで少し下ると、フウフウ言いながら登ってきた3人連れのパーティーと出会った。
「こんにちは、鑓温泉からですか」と声を掛けたら、そうだという。これから何処に向かうのかと訪ねたら白馬の方だという。僕は正直に今の悔しい気持ちを伝え、鑓温泉に下るのだが、まだ迷っていると言ったら、その中の一人の男の人が
「そらそうでしょう。せっかく来たんやもんね。あんたやったら大丈夫や、今からだったら十分、時間的にも間に合うし、その体格やったら絶対行けるから、行った方がええよ、うん、大丈夫、大丈夫」と言ったのである。
果たして彼の言葉にどんな根拠があるのか、そして僕の体格と危険な個所との関連がどうもよくわからなかったが、赤の他人の無責任な言葉を信じたくなるのも山の楽しみの一つだ。
かくして僕は不帰ノ嶮へと向かう決心を固めたのである。

そうと決めてしまえば気持ちはもう前へ前へと向かうばかり、天狗山荘まで30分ほど歩き、難所前の腹拵えとして非常食用のレーズンパンを2個ほど雪解け水とともに流し込んだらすぐに出発、9時15分天狗の頭にさしかかった頃には雨も上がり、ふと視線を上げると雷鳥の親子連れが、僕の前を小走りに駆けていくのが見えた。
カメラを取り出しゆっくりと近寄り撮影するが、折からのガスと保護色のためよく見えない。それでも簡単には逃げないもので、僕との距離を一定に保ちながら登山道を先に駈けていく姿はとても可愛らしい。暫く見とれていたら崖の方に逃げていったので雷鳥の親子に別れを告げ先を急ぐ。

ここから道は下り、本日の最難関、不帰ノ嶮へと続く天狗の大下りと言う標高差300mの急な下り、途中鎖場もありガイドブックのコースタイムでは1時間30分かかることになっている。いくら40の大厄のおじさんでも下りは得意なのである。途中何組かのパーティーを抜き去り、キレットに到着したのは10時10分、1時間弱で下ったことになる。しかし噂以上の足場の悪さと急勾配であった。キレットで靴のひもを緩め小休止、ここから不帰1峰の登りが始まる。ここからは完全な岩登りのスタイルだ。

1峰は難なく通過し、一旦下って2峰の登り。この前に数人の先行パーティーがいた。近づくとかなりの高齢者達、道を譲ってくれた。お礼を言い
「ここがあの2峰ですか?」と聞いたら、そうだという。見上げると垂直に近い一枚岩がずっと上まで続いている。たまたま雲が切れ下の方まで見渡せたが遙か彼方まで谷底は遠い。落ちたら終わりだ。コースを確認すると、一本の鎖が水平に張られているのが見えた。どうもそこら辺がルートになっているようだ。慎重に取り付く。よく見るとペンキの丸印が所々に見えた。そこを忠実に辿っていく。迷いそうなところにはちゃんと×印が付いている。靴幅の半分も無い足場が連続するルートを慎重にトラバースすると、今度は垂直に張られた鎖が現れた。

こう見えても高いところは大の苦手である。 一番怖かったのが幅20センチほどの橋が掛かったところ。下を見れば目もくらむほどの高度感、手すりは無く、ただブラブラした鎖が手すりの代わりに張ってある。鎖がある程度ピンと張ってあれば何とか渡れるのだが、こんなにゆるくてはバランスを崩したら宙づりだ。そこが誰が何と言っても一番怖かった。
恐怖心を必死の形相で誤魔化し、何とかそこを無事通過し、頂の鉄梯子を登り飛騨側から信州側に乗り越すと2峰の最後の登り、先行者がいて悪戦苦闘している。よく見ると子供達が見えた。

緊張の連続で喉が渇き腹も減ったので、彼らが通過するまでレーズンパンと水で軽い食事を採る。先行者が見えなくなってからいざ出陣、さっきの所よりは楽に登れたが、上を見ると垂直に切れ上がった頂が雲の中にぼんやりと見えた。あそこまで行かなくては行けないのかと思うと気持ちが萎えていくのが判った。とりあえず行くしか道はない。途中さっきの先行者に追いついた。よく見ると7歳ぐらいの子供達を3人連れた男の人だった。よほど通い慣れたコースなのだろうと思い、この先の状況を尋ねると初めて来たので判らないと言う。唖然として顔を見返すと涼しい顔をしていた。ちょっと無謀に思えるのだが、まあ他人の家族に意見しても始まらないので追い抜いて行くと、可愛い女の子が僕の先をよじ登っていた。
「こんにちは、頑張るねえ、こわくない?」と聞いたら
「とても怖い」と言っていた。

世の中様々な価値観を持った人がいて様々な生き方をしているのは理解できるのだが、こんな親子も珍しいと思った。
この辺から雨具を着ているのが煩わしくなり、必死に脱ぎ捨て先を急ぐと二人の登山者に出会った。彼らにこの先の状況を聞くと、もうこの先に危険なところはないし道も広くなっているとのこと、唐松岳まで40分かなと言う。何とか不帰ノ嶮を通過できたようだ。天気も青空が見え始め回復傾向にあるようだ。
礼を言って別れてからちょうど40分、12時10分で唐松岳(2696m)に到着した。相変わらずの天気で何も見えない。記念の写真を撮って貰い、白馬山荘から持ってきた弁当で昼食とした。
 暫く天気の回復を待ったが一向に晴れる様子がないので本日の宿、唐松山荘に向かった。13時00分山荘着。宿泊手続き後部屋に入ると、ここにも先行者がいてグウグウ鼾をかいて寝ていた。まったく真っ昼間に大鼾をかいて寝ているなんてこの国の将来はどうなるのか、もうちょっと真剣に考えようではないか、え?

この夜の山荘の状況は畳2畳に3人が寝るという盛況、何故かというと学校登山で170人の高校生が登ってきており、彼らが2号館を独占しているのだ。 夕方3時頃になると館内はカレーの香りが漂い始めた。「山の定番は昔からカレーと決まっている。」と誰かが言っていた。 カレーの香りを嗅ぐと、本来カレーが好物の人達は、自分たちのメニューもカレーであることを密かに願っていたようだったが残念ながら違って、ごく在り来たりのご飯にみそ汁、おかずちょいちょいで終わり、何となく悲しくもあったが仕方あるまい。

僕は、たまたま隣の寝床になった東京から来た人と不思議に意気投合し、夕食前に山荘の喫茶室で生ビールを飲みながら話し込んでいたのだが、なかなかユニークで面白い人であった。
彼は結構、北アは登っているらしく、本当は栂池から鹿島槍経由で扇沢まで縦走する予定だったそうだが、休みが前後2日間カットになり、この日に東京から車でやって来て八方尾根から入山したらしい。東京から白馬村まで中央高速で4時間だそうで、ずいぶん近いものと驚いた。本当は2人で来る予定だったが、相手の都合で結局一人となり、ショートカットして八方から行けるところまで行くらしい。荷物は僕のザックの倍近くあり、殆ど食料だという。

僕が小屋に入ると暫くして彼がやって来て、荷物を置くと、とりあえずと言って唐松岳に向かった。さっきまで唐松岳はガスで何も見えなかったと伝えたのだが、今日行かないと明日は登れないようなのでとにかく言ってくる。と言って出かけたら、すぐ雨が降ってきたと、わあわあ言いながら飛んで帰ってきた。
 北アの夏、特に午後は雨がよく降るようだ。特に2時以降の確率は、今回僕が滞在していた範囲では100%に近い確率だった。当然午後に到着した人達の多くは、ずぶ濡れで駆け込んで来て乾燥室に飛んでいった。

 この世にはいったいどのくらいの人がいるんだろう。
会う人会う人が全然見たこともない人達で、不思議な感覚で一日が過ぎる。
顔を見れば皆同じ日本人だが、誰も僕を知らないし、僕も誰をも知らないのだ。いつかきっと「おい」と、知り合いから声を掛けられるだろうと無意識に思っていたのだが、結局帰るまで誰一人として「おい」なんて呼んでくれなかった。
 携帯は持ってはいたが電源を切っていたし、そんな日常が暫く続くと不思議なことに誰もが皆、知り合いのように思えてくる。だから普段は無口な僕も自分でおかしくなるほど元気な声で挨拶する。

山で会う人は皆一様に優しい目をしているし親切だ。日本人の本来の姿はこんな風なのかなんて思えて来る。逆に考えると日常の生活は、それほど人間本来の姿を圧迫していると言うことなのだろうか。目つきが尋常でない人を捜すのなんて下界では造作ないことだが、山の上では下界で危ない人と思えるような風体の人でも気軽に声を掛けることが出来る。皆、上機嫌だと言うこともあるのだろうが、友達がいっぱい歩いているという感覚で山行出来たのは僕にとっては珍しい体験だ。マラソン大会ではこうはいかない。

 山の上で、こんなことを考えるのは変な人間の部類に属するのだろうが、何というか、下界の人混みの中で歩いていても、そんなことは考えたことはないし、山の上でこれだけの人に会ったという経験も無いのだが、不思議なことに、行き交いながら挨拶を交わした人、
山小屋で一緒に食事や酒を飲んだ人、
景色をただ呆然と眺めていた人、
花の群落が少なくなったと嘆いていた人、
難所の岩場で怖いと言っていた人、
下りのガレ場でスリップして尻餅を付き照れ隠しをしていた人、
山小屋の朝のトイレで大きなおならをした人、
もう二度とここには来れないと殊勝なことを言いながら名残惜しそうに周りの人に山の想いを語る人、
稜線の風に帽子を飛ばされそうになりながら必死に押さえて歩く人、etc etc........
 皆、何というか、それぞれの人生を必死に生きながら、束の間の安息を求めて山に来たのだろうが、それぞれの、その人なりの人生が、いや、何と表現したらいいのかな、人が生きているという重さが、ひしひしと伝わって来るような、(巧く表現できないな)その人なりの人生の縮図が見えるような気がして、と言うのも、皆が心のカーテンをフルオープンにして、部屋の中に外の新鮮な空気を取り込んでいるように、自分の魂を解放しながら、他人を受け入れて接してるように思えてならないのだった。
 「人生に乾杯」と言うフレーズを以前何処かで聞いたように思うが、行き交う人皆が光り輝いて見える気がして只々、頑張れと応援している自分に気付くのであった。この人達の人生の手助けなんて絶対出来ないことだし、ただ応援するしか僕には出来ないのだが、、、、、

 うまく表現できないけど、とても不思議な感覚を体験したのである。

その2へ続く

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