飯森&山響 モーツァルトシンフォニーサイクル
   「アマデウスへの旅」 第6年
   交響曲全曲演奏 定期演奏会 Vol.17


2012.10.06(土) 山形テルサホール
指 揮:飯森範親
ピアノ:小菅 優
コンサートマスター:高木和弘
交響曲 第13番 ヘ長調 K.112
ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595
【アンコール】ピアノソロ
 シベリウス:「樹の組曲」より もみの木 op.75-5
 ショパン:練習曲10-12「革命」
---- 休 憩 ---
交響曲 第15番 ト長調 K.124
【アンコール】
 交響曲 第13番より第2楽章

今年の稲刈りも何とか終わり、気ぜわしさから少しだけ解放された。
季節は移ろい、山々が錦秋の色合いを帯び始めた話があちこちから聞こえてくる度、山屋の血が騒いでたまらない。
けれど山も良いのだが、下界の車で2時間も掛からぬとある一画に、これまた夢のような時間を過ごせる空間があるのだ。

この企画ももう6年目、あと7公演を残すだけとなり、改めて時の経過の早さを実感する。
齢五十を過ぎると、精神的にも肉体的にもいろいろな変化がある。私に限ってみれば生きていく上での能力が、現実的に落ちているのは否めない。けれどもいろんな意味での感覚は、ある意味若い時分より少しだけ研ぎ澄まされてきた部分もあるように感じている。
良くも悪くもほんの少しではあるが…

本日の選曲である交響曲第13番と15番は、音楽監督の話によれば共に16歳頃に3ヶ月と間を置かずに作曲されたものだそうで、このわずかの時間でモーツァルトがいかに成長したのか感じてほしいと言われていた。
音楽監督曰く、モーツァルトの短い生涯の中で切っても切れないものが、女性とお酒と食べ物なのだそうだが、他人がどう悪く言おうが、それらがモーツァルトの創造源であることには違いないのだ。酒は百薬の長、飲み過ぎればただの毒、モーツァルトにとっては毒だったのかも知れないが、今の世に伝わるこの素晴らしい作品群はこれらの毒をなくしては存在し得なかったのだ。

当時ウイーンの音楽界の頂点に立っていた人物はサリエーリと言われている。オペラなど多くの作品を書いて聴衆や国王から絶賛されていたそうだが、今に伝わる彼の作品はほとんどと言っていいくらいにない。
方やモーツァルトは35歳でこの世を去り埋葬地もわからない。彼の作品を芸術として評価し、今に伝えたのは後世の人たちである。そういう意味では当時のウイーン人の音楽に対する感覚は、今とは違ってもっと娯楽的なものだったのだろう。

実を言えば、モーツァルトが創った芸術の本当の姿を私には理解なんてできない。
スコアという先人の英知が結集したものの中から、作曲家の意図を読み解き、作品として再構築し、当時の音に極力近づけたものを現代の聴衆に提供しようとする。山響とマエストロのこの企画を今まで聴かせて頂き、私自身の感覚も少しは良質になって来たのだろうか、そう言えば、以前は聴いてもあまりピンとこないような曲を心地よく聴けることもある。

私の能力なんてその程度のものだが、誰かが言っていた。
生まれてから何百年もたって今に伝わる音楽を、クラシックという範疇で括って、聴こうともしない人たちが多い現実は、実に残念でもったいないと。
私の音楽環境なんて瑣末なもので、粗大ゴミのように扱われている30年以上も前に買ったコンポを骨董品のように愛おしくながめているだけで、音を出すことなんてまずもって希である。
普段は移動の車中で聴くFM放送か、これも20年以上前に買ったPortable CD Playerのイヤホンから流れてくる音を心の拠り所としているのが現実…

そんな中での最近のマイブームが、近所のBOOK OFFで安く手に入れた一枚の中古CDなのだ。
いわゆる安価な名曲コレクションのCD全集の一作なのだろうが、この音に今はどっぷりとはまっている。
録音日時も書いてないし、解説書もないモーツァルトの交響曲集で、40番、29番、35番の順に録音されている。いつ買ったか記憶に残ってないが、多分山響の演奏会の予習用にと気楽に買ったものだと思う。

もちろん、史上最悪の偏屈者で、どうしようもないエロ爺と揶揄される私が、声高に公言できることではないが、このCDが今の山響に一番近い音(ホールでの音)に感じられるのだ。
受け取り方によっては、我らが山響を侮辱しているかのようにとられる方がいるかも知れない。事実私が何気なくの発した言葉(文字も)で、少なからぬ人たちに迷惑を掛けたこともあるが、それらを差し引いても私的には十分に価あるCDだと思っている。
それを繰り返し何度も聴いている。
もちろん山響のSACDも持っている。けれども私の耳ではこのCDの音なのだ。そしてこの感覚というか楽しみを教え与えてくれたのも間違いなく山響である。
情けない話ではあるが、これが今のささやかな楽しみだ。

「東京だよ、おっかさん」や「芸者ワルツ」を熱唱するのも良いが、いつだって頭の中ではいろんな音楽が、止まらぬジュークボックスのように鳴り響いている。山に行けない日々が続いて気持ちが落ち込んでいても、これで何とかしのぐことが出来る。そして年に数度、演奏会で生の山響を聴けること、それですべて丸く収まる。

普段は一人静かに手酌で呑るのが好きだ。山小屋で偶然一人だけの夜を過ごせる幸運に恵まれたときは驚喜する。世間では何が流行り、どんなものに人々が価値観を見いだそうとしているかなんてあまり興味はない。おまえは老いさらばえて物欲が無くなり、利己的になったのだと言われても気にしない。自分の価値観を自分が認めていれば、大概の嫌なことは他山の石として役に立つのだ。

やっぱり相当偏屈だな…。


天才モーツァルトは、若くして世の喝采を浴び我が世の春を謳歌した。けれど順風満帆に見えた彼の人生が大きく傾きながら路地裏に消えていったのも史実であり、どんな人間も消滅するのが必然である。しかし生きている間は、どんな人間でもそれに抗う自由はある。それは人間の本能であり性だ。
水のように人は流れていく。そこに大きな矛盾が潜んでいることなんて気にもかけずに…



演奏会の記録を手短に…
13番は1771年11月にミラノで書かれた。アマデウスは11月27日生まれなので16歳の誕生日前後に書かれたものと思われる。イタリアの新緑を意識して書いているそうだ。
編成は弦5部に2-Ob、2-Hrn、1-Fg、(Fgは弦の補強らしい)全4楽章のもの。
この時期の作品は4楽章形式が多く、この作品は宮廷音楽そのものといった感じで、私の思い描くモーツァルトの作品とは一味違う印象を持って聴いた。短いようで長く感じる4楽章でした。

この日は二階席の一番前で聴いていたのだが、指揮者が指揮棒を構えるのと時を同じくして後方からコツコツと靴音が響いた。入場の遅れたお客さんが一人、自席(バルコニー席)へと向かっている。これを嫌って指揮者が演奏を始めないのは明白であったが、階下の聴衆にはわからなかったようだ。これは明らかなマナー違反、飯森さんが怒って帰っても誰も文句は言えないと思いました。
でも演奏はさすがの山響、弦パートの切れと伸びはさすがです。あまりの心地よさについ…

27番の協奏曲のソリスト小菅優さんは現在ミュンヘン在住、以前より共演のラブコールを送り続けていたそうで、今回やっとスケジュールが合い実現できたそうです。しかし意外なことに山形テルサは二回目なのだそうで、以前リサイタルをしたことがあるそうです。

この曲は1784年の作曲、サリエーリとの「対立」か、それとも「学び」があったのかは知るよしもないが、デモーニッシュな響きと音楽監督は言っていた。つまりこの時代は目立つことにしのぎを削っていたと言うことらしい。
damonischとは、ドイツ語で悪魔的と直訳されているが、音楽監督の言わんとしている意味は「異質な響き」といった感じ、モーツァルトの協奏曲ではこの作品ばかりでなく20番とかでもよく使われている形容詞だ。

編成は弦5部に2-Ob、2-Hrn、2-Fg、1-Fl、独奏P、配置は中央にPがでんと座り、弦は対向配置の扇形で、後方に管楽器が並んでいる。
演奏はこれぞ協奏曲、といった感じの素晴らしいもので、終演まで目(耳?)が一瞬たりとも離せないほどテンションの高いものでした。小菅さんのピアノの繊細さは(ppの)、言葉で表現できない優しさと美しさと感動がありました。すごい人です。
これに応える弦のアンサンブルは、山響が誇る各パート首席の演奏が実に素晴らしい美しさ…

スコアにはsoloと書いてあるそうですが、パート譜にはないそうで、指揮者によっては各パート全員で演奏する方が多いそうです。
特に第2楽章の強弱の表現は、魔法のような"damonisch"な響きに鳥肌が立ちました。
拍手が鳴り止まずアンコールを二曲も…
全然違う曲想の2曲で、この人の実力を見事に表していました。素晴らしいピアニストです。

休憩後の15番は前述したが13番の3ヶ月後の作曲、編成も同じく弦5部に2-Ob、2-Hrn、1-Fgで各楽章の拍子も似ているそうです。
私的には13番よりモーツァルトらしさが際立つ作品のように感じました。
珍しくアンコールが…
私の記憶ではモーツァルト定期で2度目のことです。
13番の第2楽章を改めて聴いてみると、この楽章は弦だけの演奏なのですが、いやあ〜、ホント良いです。優しさと気品がうまく融け合った心に響く名演でした。
ブラボ〜!


終演後の交流会ではNHKの山田アナウンサーがMCを努めていました。彼は二階席の我々のすぐ近くで聴いてましたが、自身もピアノを弾かれるそうで、27番は自分の中で特別の曲であると言ってました。
また、素顔の小菅さんは写真とは少し違う印象でとても可愛い方でした。
とても小さく可愛らしい手の持ち主で(エロ爺ですいません)あんな素晴らしい演奏をすることに驚きました。ぜひまた聴きたいピアニストの一人となりました。

音楽は時間の芸術とも言われる。今このホールで演奏される音を本当の意味で聴くことが出来るのは、その時その場所にいた人たちだけなのだ。そして二度と同じ音を聴くことは出来ない。

う〜む、偏屈者め…

     

テルサでの交流会の様子