【美里から復興への応援歌 第九】
      


2012.03.31(土) 美里町文化会館(宮城県遠田郡)
指 揮:飯森範親
ソプラノ:安藤赴美子
アルト:小島りち子
テノール:渡邉公威
バス:成田博之
コンサートマスター:高木和弘
合唱:美里町第九を歌う会


モーツァルト:交響曲 第9番 ハ長調 K.73

---- 休 憩 ---

ベートーベン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125(合唱付)



私の知る限り、震災後我らが山響は、演奏会の度に被災者支援のプレコンサートを行ってきた。頭の下がることである。
ふとしたきっかけで今回の演奏会を急きょ知り、運良くチケットも確保できた。これは中登隊のA.TOM隊長の尽力があったことを忘れずに記しておく。
隊長、奥様、I藤隊員、皆様には何から何まで大変お世話になり、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。

    
こぢんまりとしたステージ

美里町は町村合併により出来た町ではあるが、合併前は小牛田町と言った方がピンとくる人が多いかもしれない。旧小牛田町では山響が1976年(昭和51年)に初めて県外で第九を演奏した町なのだそうで、その時も第九を歌う会が中心となり演奏会を企画運営したらしい。今回の演奏会はその時以来で実に36年振りのことなのだそうだ。そういう意味においても美里町と山響は古い繋がりがあるのだそうだ。

恒例の指揮者によるプレトークが始まる頃には会場も満員状態、我らは前から4番目の第1Vln側の席に着く。この日の演奏はモーツァルトとベートーベンの共に第9番交響曲、天才アマデウス13歳での作曲、かたや楽聖ベートーベンはこの曲の完成時には54歳、最後の交響曲で1824年の初演とされている。小学生と老練な作曲家の対比が面白いというか、まあそれは置いといて、音楽監督はこの地に於いて楽団の宣伝を少しなされた。

管楽器のプレーヤーがずらりと並び古楽器の説明と実演を…
Hr,Tp,Tbの特徴と音色を説明して下さり、観客も興味津々であった。
1曲目のモーツァルトの9番は、作曲当時のスタイルというコンセプトの元、スタンディングポジションでの演奏、第2楽章途中では、Flの二人が左右の袖から登場して、指揮者の前で華麗な音を響かせた。これはこれでかなり格好良かったです。
美里町の人達にも山響の素晴らしさが伝わったと確信できる演奏でした。
それにしても足達さん(Fl)ダンディーすぎるよな〜♪

休憩後にメインの第九が始まる。
団員の入場前に拍手はしないようにとアナウンスが入る。
全員揃ってから飯森さんが簡単なあいさつをし、聴衆もすべて起立し被災者への黙祷を捧げた。
会場への道すがらあちこち寄り道してきたのだが、一年たっても当時の傷跡があちこちに残っており心が痛んだ。

およそ800席と聞いた会場は満員状態、人いきれで暑くてたまらないし、古いホールなので椅子の間隔も狭く演奏が始まってからは固まってしまい、団員さんには悪かったが睡魔に負けてしまった自分が情けない。
個人的に休日無しの深夜帰宅の状態が昨年10月より続いており、一息ついたのがほんの数日前、人は流麗で豊穣な音の中では心地よい睡魔を払拭できるものではないのです。ごめんなさい。

第九は人生の喜怒哀楽すべてを表現する楽曲でもある。迷い、争い、死、そして再生…
今まさに再生しようとしている被災地への応援歌でもあるのだ。飯森氏は暗譜でオケをグイグイ引っ張って行く。今回は古楽器を使用することで作曲当時の音に少しでも近づけようという配慮がなされ、私は山響の第九を聴くのは二度目になるが、所々にオヤッと思う音が聞こえてきた。

プログラムの解説欄には、古楽専門のオケを除くモダンの常設オケでこのような編成と演奏スタイルをとることは世界的にも希である。と書いてあった。
弦楽器の編成は、1stVln-8 2ndVln-8 Vla-6 Vc-6 Cb-3と山響のモーツァルトサイクルと同様である。

第4楽章の前には合唱隊とソリストが入場し暫しの間がある。合唱隊はもちろん地元の有志、ソリストはソプラノの安藤さん以外は南三陸町、石巻市、大崎市の出身である。皆それぞれに思い入れのある演奏会なのだろう。事実、合唱が始まると会場の雰囲気が一変した。私の周りにも客席で一緒に歌う人が何人もいた。自然と流れ落ちる涙、涙、涙
鳴りやまぬカーテンコール、とても熱い演奏会であった。

終演後混雑する出口を横目に、トイレ脇の出入り口(非常口?)からVlaの倉田さんが外に飛び出していった。真似して外に出るが方向音痴の私はえらい遠回りして顰蹙を買う。急がば回れなのだ。反省…
終演の連絡をし急いでA.TOM隊長宅に向かう。厚かましくも今宵の宿とさせて貰う。


隊長と一献酌み交わすのは何年ぶりだろう? 栄光の中登隊は活動停止中と言うか、私が山に行けないだけなのだが…
宴会前に近所の温泉施設で暖まり、小牛田駅前の伊勢屋と言う居酒屋で乾杯となる。7時半頃には懐かしいI藤隊員も年度末の忙しい中駆けつけてくれ話が弾む。隊長の奥様が迎えにいらした頃には皆酩酊著しく、いつまでも尽きない山の話題に呆れ顔であったらしい。
皆様、突然の訪問にも関わらず何から何までお世話いただきありがとうございました。
この夜は当然のごとく就寝時間不明…
ちなみに伊勢屋の奥様は庄内の出身とのこと、いろいろ聞いたら我が家のすぐ近所でした。世の中、広いようで狭いものだと改めて思った。



大高森からの景色

翌日は隊長夫妻の好意に甘え奥松島と松島を案内して貰った。
3.11の震災後、多くのボランティアや各方面の救援隊の活躍を見聞きし、自分に何が出来るか自問する日が続いた。当時身動きできない環境下にあった自分には、結局現実的には何も出来なかったのだが、映像等では間接的に見ていたつもりでも、一年という時間を経た被災地の姿を自分の目で見ておきたいという思いは、物見遊山のようで被災された方々から見れば非難されることなのかも知れない。けれども一人の東北人として、2008年の12月に隊長と登った大高森、そして岬を辿って行ったあの断崖、石巻を含めたその周辺の現状をこの目に焼き付けておきたいという思いを捨て去ることは出来なかった。

鳴瀬川沿いの道を河口に向かう。震災当時地盤沈下が激しく橋の両側は相当の沈下があったそうで、車の通行は不可能、今現在も沈下した堤防や橋台の側の補修工事があちこちで行われている。
仙石線の橋を過ぎた頃から津波により押し流された家が所々に見えた。野蒜海岸沿いにあった石堤もそのほとんどが流失したようで応急処置的な堤で復旧されていた。周辺の住宅街は壊滅状態、今はほとんどが片付けられ更地になっている。傍らには集積された瓦礫の山が当時の状況を物語る。

色々説明して下さる奥様の声も時折震える。隊長夫妻にとっても思い出多き場所なのだろう。小さな橋を渡ると宮戸島、入り江には建設用の重機が沈んでおり、そのブームの先だけが海面にポツンと突き出ている。以前登った大高森の駐車場を過ぎ、先に大浜地区に行ってみるがその光景をなんと表現しようか…
絶句である。
以前来たときにはひしめき合って建っていた家屋が全て流され更地となり基礎だけが残っている。

  
ここにあった家屋は…        港の岸壁も沈下して海面と同じ高さに…

その後4人で大高森に登る。日頃の運動不足が祟り息が切れた。ここからの景色は何度来ても絶景である。日差しが暖かく春を実感する。
山頂からの360°のパノラマは以前来たときとそんなに違和感がないが、当然のごとく津波の通り道が一目瞭然で改めて自然のパワーを思い知る。ほとんどすべての地で地盤沈下が著しく、かつての圃場や宅地が海面下となった光景には心が痛んだ。
その後仙石線の野蒜駅に立ち寄った。ここはいまだに被災当時のままであり、各地のナンバープレートを付けた車が駐まっていた。
偶然一緒になったどこかのおじさんが「自然を征服するなんてことは不可能なことなんだとここを見ればわかるよなぁ〜」と独りごちていた。

  
仙石線野蒜駅の様子

ポイントの切替え機の柄が曲がっている…

仙石線東名駅から左折し港の方まで向かってみたが、ここの光景も痛ましかった。ほとんどの家屋が撤去され更地となっているが、所々に無人と化した家屋が被災当時のまま残っている。印象的だったのが、そこにある墓地の復旧が進んでいたこと。この日も花を手向ける人たちがチラホラ見えた。

被災から一年以上の時が経過し、被災地の復旧が遅々として進んでいない現状を初めて自分の目で見た者の勝手な疑問ではあるが、この場所を震災前と同じ状態に戻すのだろうか、それとも高台への集団移転となるのだろうか。集落そのものが消失した場所でまた同じように生活できるのだろうかと言う疑問が次々と湧き上がる。

その後観光客で賑わう松島で昼食、五大堂にお参りしたのは、40年振りぐらいか…
異空間に紛れ込んだ気がしたが、さすが日本を代表する観光地、巨大な観光ホテルが建ち並ぶ町並みに震災の痕跡を探すのは難しかった。松島は湾内の小島に守られ、ほかの沿岸部より津波被害は少なかったと聞いてはいたが、日曜と言うこともありとても賑わっていた。

この一年間を振り返ってみると、自分は一体何をしていたんだろうという疑問が頭を離れない。ただただ日々の暮らしや仕事に忙殺され、雪崩の中でもがくようにジタバタして、やり場のない怒りに苛つきながら虚ろな目をしていた。自分はこんな生き方をしていていいのだろうか、今もっと何か別のできることがあるんじゃないか、いっそのことすべてを放りだして逃げだそうか、前を向いて歩こうとしても濃い霧で足下も見えない、回遊魚のように泳ぎ続けないと窒息しそうで、がむしゃらに目標もなく動き回るだけ、etc etc…

自分という人間が、人に生かされているのか、自分の意志で生きているのか分からなくなる瞬間がある。
何をそんなに焦っているのか、命の灯火が明日消えるわけでもない(いやいやそんなことは誰にもわからない)、日々出来ることを精一杯やる、そんな言葉もよく聞くが、虚しく聞こえる自分が憎らしくなる。
海中を漂うクラゲのようにいっそ船出しようか、そうすれば混沌とした雑音が、麗しき音へと変わるのだろうか…
そうだそうだ、とにかく山に登らなきゃだめなんだ。登らないと…


O Freunde, nicht diese Tone! sondern lasst uns angenehmere anstinmmen, und freunden vollere."

【 おお、友よ、このような音ではなく、もっと快いそして喜びに満ちた歌をうたいだそうじゃないか 】
 
   ※第九 4楽章冒頭の詩を引用