飯森&山響 モーツァルトシンフォニーサイクル
   「アマデウスへの旅」 第3年
   交響曲全曲演奏 定期演奏会 Vol.7


2009.07.31(金) 山形テルサホール
指 揮:飯森範親
ソプラノ:吉原圭子
アルト:斎藤雅子
テノール:佐藤淳一
バ ス:井上雅人
合 唱:山響アマデウスコア
合唱音楽監督:佐々木正利
合唱指揮者:渡辺修身
コンサートマスター:高木和弘

交響曲 ヘ長調 K.75

交響曲 変ロ長調 K.Anh .214

---- 休 憩 ---

戴冠式ミサ ハ長調 K.317



早いものでこのシリーズも3年目に入った。平日にもかかわらず客席は9割方埋まっている。飯森氏恒例のプレトーク、的確な解説を拝聴する。

1曲目の交響曲ヘ長調は、未だオリジナル譜が発見されておらずモーツァルトの作品ではないという説もある(2曲目にはAnhが付いているが)、15歳での作曲らしい…
全4楽章で初期の作品としては珍しい構成なのか? しかしながら演奏時間は15分弱といたって短い。演奏が始まるや???
非常にシンプルな音の組み合わせに面食らったのが正直な感想、弦5部にホルン、オーボエの構成である。しかし第2楽章のメヌエットはとてもうっとりと聴くことが出来た。全体的には弦の音が心地良かった。

続いて交響曲変ロ長調、当初Anhが付いていたが、どこかの図書館でパート譜が発見され、真作と認定されたそうでK.45-bとなる。アマデウス12歳での作曲とのこと。
この曲も初めて聴くが実にすっきりとして奇麗な曲だ。
冒頭からモーツァルトらしさがはっきりとわかる作品で、飯森氏も話しておられたが非常に中身の濃い作品であり、12歳での作曲とは信じられない完成度を感じた。
ひょっとしたら父であるレオポルトの助言があったのかも知れない。弦五部にホルンとオーボエ、ファゴットの構成。

休憩後本日のメインである戴冠ミサ、オケに続いて合唱団の入場、そしてソリスト達の入場と続きすぐに演奏が始まる。編成は弦から何故かビオラが抜け(珍しいのかな?)、その分管が増え、トロンボーン、トランペット、ホルン、オーボエ、ファゴット(1)、バロックティンパニとオルガンが入る。
モーツァルトのミサ曲の中では最も有名なものだそうだが、恥ずかしながら私は初めて聴く。

冒頭のキリエ、神聖な歌声がホール全体を優しく包み込むように響き渡る。と同時に私の意識は非日常的なものへと切り替わるのが体感できた。
それからは完全に夢の中だ(笑)

ミサ曲は自身あまり聴いたことがないが、バッハのCDは持っていて以前何度か聴いたことがある。当然非常に宗教色が強いのだが、通常の交響曲との違いは明白で、ある意味安心して聴く事が出来る。最初から最後まで際だった抑揚が無い分、淡々と時の経過を意識することなく、音楽と自己との対話が出来ることは、ある意味非日常の極地とも言える。これほど慈愛に満ちた素晴らしい音楽を造る事の出来る人類が、どうして対極的な行為を日々延々と繰り返すのだろうかという疑問が、エンドレスで私の中を駆け回る。

山響のピリオド奏法も安定を増し、その響きは紺碧の空のように澄み渡る。
古楽器から放たれる音は実にシンプルで、中でもバロックティンパニの音は打楽器と言うより、一つ一つの言葉に明瞭な意味がある賢者の語りのような感動を憶えた。
実に素晴らしい。
キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、ベネティクトス、アニュス・ディと淡々と且つ流麗に流れて行き夢のようなひとときはあっという間に過ぎ去る。これもまた変な喩えだが人生のようだ。

人間は自分の人生の時間を巻き戻すことは出来ない、けれども記録し回想することは可能だ。果たしてそれが良いことか否かは判断できないが、アマデウスが残してくれた音楽と言う時間(幸せ)を今に蘇らせてくれる山響と飯森氏に感謝したい。

幸せイコール豊かさと言う妄信的時代を経て、本当の幸せを探しあぐねている現代人には、アマデウスの残した時間から何を感じ取ることが出来るのだろうか。
ほんの少しでもいいから…



交流会でのソリストのみなさん
左から吉原、斎藤、佐藤、井上の各氏