【山形交響楽団 第178回定期演奏会】

ベートーベン 交響曲第4番変ロ長調作品60

  ---- 休 憩 ---

ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(ハース版)

2007.01.27(土) 山形テルサホールにて
指 揮:飯森範親
コンサートマスター:高木和弘



山形テルサは恥ずかしながら初めてのホール、県都にあって800人と収容人数は少ないものの、とても響きの良いホールであった。県民会館、市民会館ともに音響に関しては皆イマイチ物足りなさを感じているのは周知、せめて我が地元の希望ホールぐらいのキャパシティーとクオリティーを持ったホールがあっても県都の名に恥じることはないと思うのだが・・・

さて、本題、
解説本にもあったが名曲=難曲で名高い両曲ではあるが、ブル-4なんて初めて聴いたのはいつのことか忘れてしまった。当時、全然訳が分からなくて最後まで聴けずに暫くCDをほったらかしにしていた記憶がある。
ベト-4に至っては、響ホールでぶっつけ本番でOEKの演奏を聴いたのが初めてか?
まああまり私のような音楽素人には、なかなか受け入れて貰えない曲でもあるのかなと思う。

大昔、恩師に「継続は力なり」と耳にタコができるくらい説教された。つまりは飽きっぽくて何事も長続きしない性格を当時から見透かされていたのだが、素人でも分からないなりに長く音楽を聴いていると、当時退屈きわまりなかった曲もそれなりに楽しめるのが音楽の不思議なところ(現在は両曲とも大好きな曲になっている)
座席も運良く前から7列目の中央、はっきり言ってこれ以上の環境は無いんじゃないかという場所での鑑賞となった。


恒例となっている飯森さんのプレトークを楽しむ。
ベト-4は、他の作品と違い1楽章は沈鬱に静かに始まる。2楽章では「ドキッ、ドキッ」と心臓の鼓動のイメージ、もう一方では「テレーゼ、テレーゼ、テレーゼ・・・・」と終始恋人の名を呼ぶイメージが重なり合い、恋する者の微妙な心理描写を表現している。3,4楽章はVery Happy happyで終わる。

方やブル-4は、イメージとして蔵王の春の景観にマッチする曲とのことで、飯森さんは日本では山形以外では振ってないとのことである。都会はイメージに合わないと言うことなのだろう。全4楽章は一時間を超える非常に長い曲で聴き応え十分だ。ラストの音の残響を楽しんで貰いたいような口振りであったが・・・

編成はドイツスタイル、1st及び2ndヴァイオリンが両翼をにない、ステレオのように弦楽器の音色が楽しめる配置だ。今回はコンマスに特別首席の高木さん、2ndの首席に客演のヤンネ舘野氏、共に若い奏者ではあるが実力は相当のものである。

ヤンネ氏の父上は高名なピアニストの舘野泉氏、以前NHKか何処かで特集をやっていたと記憶しているが、演奏中に脳出血で倒れ右手が麻痺し、復帰後左手だけで演奏するピアニストと言えばご記憶の方もいるに違いない。どういうご縁で山響に客演したのか興味がある。

演奏はとてもとても良かった。ベートーベンの4番は、ファゴットの高橋さんの独壇場と言ったところか、弦楽器も良くまとまっており素晴らしいアンサンブルだった。個人的にいつも感じているのだが、山響にとってフルートの足達さんの存在が非常に大きいと思う。しっかりと地に足を着けた堅実なソロは、何と言うか実にどっしりとした安定感があり安心して聴いていられる。

飯森さんの解説を聞いて改めて曲想に思いをはせる。確かにこの交響曲はベートーベンが、恋人テレーゼへの愛を壮大に歌い上げたものだというのが実感できた。
どうしようもない恋への不安、ドキドキと胸打つ恋人への切ない想い、そして最後は愛する女(ひと)への最大の賛歌、聴いているだけでこちらの気持ちまでうきうきしてくる名演奏だった。

天才的な音のひらめきは、現代を生きる私など想像もつかないような表現力だと改めて思う共に、音楽家というのは凡人など到底理解することのできない、神から賦与された何か特別な言語を操る別世界の生き物のようだと、こういう素晴らしい演奏会の度に感じるのは私だけなのだろうか。本当に素晴らしい演奏であった。


休憩後本日のメイン、ブルックナーの4番が静かにホルンの独奏から始まる。この曲はオーケストラの各パートのソロが上手く絡み合って成り立っている感じ。当然プレーヤーの腕の見せ所も多い。この日はいつもの山響より人数的にも多い編成であるが、もちろんこの曲に合わせてのことだろう。マエストロの思い入れが直に伝わり気合いを入れて聴く。

静から動へ、煌びやかなアンサンブルから荘厳な響きへ、ピンと張りつめた一本の糸が途切れそうなほど弱々しく感じる事もあったが、最後までそれは決して切れることなく続いた。
オーケストラ全員が神の意志に導かれるかのように壮大に歌い上げるこの曲に、私は金縛りにあったかのような緊張感に驚きながらも引き込まれていった。

魂の奥底まで轟くブラスの響き、繊細なストリングスは決して濁ることのない清流のような神々しさ、木管同士の神の会話のようなインターフェア、人間が奏でる音の美の極限のように感じられる素晴らしい時空が、マエストロ飯森の繊細かつ大胆な指揮により導かれる先に、一体何が待ち受けているのかわくわくしながら、その流麗な流れに身を委ねた。
それはそれは天国にいるような至福の一時、全ての雑念を忘却の彼方に追いやり、聴衆は純粋にその場の音だけに集中する、当然そこに湧き起こる巨大に熟した感動という思念は必然的に・・・

全ての生き物が好むと好まざるに拘わらず必ず迎える瞬間、それは、誕生と死だろう。
壮大な時空の流れの中で、我々が生きる事の出来る時間は、ほんの僅かな、ささやかなものに過ぎない。それは喜びと悲しみ、或いは、憎しみと慈しみ、感情というさざ波の中で蠢くパラドックス的小宇宙でもある。

音楽とは、人間という多分非常に利己的な生き物が天から授かった、全宇宙に誇れる数少ない物の一つだろう。私がいる今という空間あるいは時間の中で、これだけの素晴らしい演奏に巡り会えた幸運は偶然としか言いようがない。

マエストロ飯森と山響に最大の感謝と賛辞を送りたい。