劇団四季『ミュージカル異国の丘』

2006年12月22日(金)


酒田市民会館「希望ホール」



年末の慌ただしさに追われる日々の中、友人に誘われ急遽観劇する。

劇団四季は日本を代表する舞台作家、演出家でもある浅利慶太氏が主宰する劇団で、その芸術性の高さは世界に轟くものであるが、私は今まで鑑賞する機会に恵まれなかったが、一度はこの目で見てみたいと密かに願っていたのである。

「異国の丘」とは、劇団四季のオリジナルミュージカルで全国公演中とのことである。急遽の観劇のため予備知識はゼロ、ストーリーは主人公の九重秀隆が、第二次世界大戦前のアメリカ留学から、シベリアでの抑留生活で生涯を終えるまでの軌跡を辿った物語である。戦争の悲惨な傷跡を後世まで風化させないで伝えたいという作者の想いが伝わる壮大な構成であった。
後で知ったことだが、この物語は西木正明氏の小説「夢顔さんによろしく」に想を得たフィクションではあるが、かなり史実に忠実に書かれているものらしい。

主人公九重秀隆のモデルは近衛文隆と言う実在の人物、先の宰相近衛文麿の嫡男でもある。アメリカ留学中はプリンストン大学に籍を置き、アマチュアゴルフでは相当の実績を残したらしいが、あまりにも放蕩が過ぎたのか学業が芳しくないため退学し、帰国後父親の秘書官などをやり、大陸に渡るも密かに企てた和平工作に失敗、軍の上層部に睨まれ二等兵で召集、最前線に送り込まれた。
終戦後シベリアに11年間抑留、彼の地で帰国直前に謎の死を迎えた人物である。海外ではプリンスコノエで通っていたという。以後詳細は割愛するが、なかなか気骨のあった人物らしい。西木氏の著作を読むのも意義のあることだと思う。

かなり古い時代背景に加え、若輩者の私も戦争を知らない世代ではあるが、当時の外交やそれぞれの国の思惑や主義主張に加え悲恋物語の要素も加わり、めまぐるしく変わる舞台や衣装が初めて目にする者にはとても新鮮だった。
見た目の華やかさもさることながら、人間の根源的な愚かさの普遍性とでも言うのか・・・

こういう大きな劇団のミュージカルステージというのを生で初めて見たのだが、細部まで入念に練られた舞台構成には正直驚いた。全国公演だから何度も同じ演技をほぼ毎日行うのだろうが、「慣れ」という概念を微塵も感じさせない舞台に次第に引き込まれて行く自分の姿を、客席の最後列の天井裏から眺めているような不思議な既視感を感じながら見ていた。

ミュージカルと言えば以前映画で見た「コーラスライン」が真っ先に頭の中に浮かぶ。あれはコーラスと呼ばれる未来のスター達の物語、華やかなダンスシーンや歌が素晴らしかった。「42nd street」の日本公演もテレビか何かで見た記憶がある。共にショービジネスの本場ブロードウェイでのもの、今回のステージはそれらの物とはコンセプトが違う。本場の真似を日本人がしても明らかに無理がある。そう言う意味で「異国の丘」は日本のオリジナルだと思う。クリントイーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」も見てみたくなった。

感想を続ける。
人間とはある意味とても愚かな生き物である。
個々の意識レベルでは和平を望みながらも、国家権力との闘い、その時代の大きな流れに呑み込まれ、パラドックスにもがき苦しむ姿は、先人の多くの犠牲をもってしても未だ解決できない人間の無能さ愚かさをうまく表現していたと思う。
劇中、九重と愛玲の台詞で「私は祖国を愛しています」というものがあった。軽薄な私には少し抵抗のある言葉だったが、当時の人々にとっては、口にこそ出さなくとも根元的概念であったのだろう。

私の知人に父親がシベリア抑留から帰還したという人がいる。残念ながら数年前に父上は他界されてしまったが、その人の父上が折をみて息子によく話し聞かせたそうだ。
当時のシベリアでは雑草や木の皮等、とにかく口に入れることの出来る物全てを胃袋に収め、少しでも栄養分を吸収することが出来た者だけが生きて日本に帰れたと・・・
当時抑留生活を送っていた人達が絶望しか見いだせない極寒の地で、何に希望を見いだし生き抜いたかは、誤解を恐れずに申し上げればある意味明白だ。

話は飛んで今のこの国・・・
確かに当時に比べれば夢のように豊かな社会ではあろうが、限りない人間の欲望は未だ満たされず人々は疲弊しきっている。管理し管理され、無限ループのように際限なく繰り返される規制社会は、人々が本当に望んでいる社会なのだろうか?
ふるいに掛けられた人々には救済の手を差し伸べることなく切り捨てる競争社会・・・
明らかな差別社会にこの国はひたむきに向かいつつあると感じている私の思いが杞憂であることを願うばかりだが、現実は私一人仙人のような生活をしているわけではない。私も間違いなくこの矛盾した社会の歯車の一つなのだ。
大いなる矛盾・・・

自分が過ごしてきた決して長くないこれまでの時間と、軽やかに歌い踊る俳優達の演技を重ね合わせ瞼を閉じるとき、今は私の近くにいない大切な人達の姿が走馬燈のように浮かんでは消えた。その幻の多くは無言であったが、何かを語りたげな訴えるような目線が鮮明な記憶として残っている。

単一民族国家から様々な国籍や民族が同居する社会にに変わりゆく現在、人間としての根本的想いは、どんなに時を経ようが、どんな世界に住もうが、どんな民族と同居しようが、そんなに大きな差異はないと思うのだが・・・
いろんな想いが交錯する重いステージだった。