【東京雑感】

所用の為久々に上京した。
自然豊かな地方から都会の雑踏に紛れ込んで改めて感じることは人の多さである。
少し時間があったので、神田界隈をぶらついて有名な登山用品店なんかを冷やかしに覗いてみた。まあ、これだけ人で溢れ返ってる街ゆえ、結構な人数が店に入っていて、我先にお目当ての品を探している。
その多くは、所謂、私同様の中高年である。

暫くしてあることに気づいた。それは何かというと、日(雪)焼け顔は店の中で数名の店員と私ぐらいなのだ。店員の中にも明らかに日焼けとは縁遠い顔の人もいた。
備え付けの鏡に映った自分の顔が、あまりにも黒くて気恥ずかしさを覚え、ここは場違いと思い、そそくさと退散した。
登山用品店が量販店化している現実に正直驚いたのが本音であるが。

これらの店で買った品を身につけ、大挙して何処ぞの山に押しかけてくる姿を考えると複雑な気持ちになってしまう。
多くの人達は深田百名山を目指すのであろうか。
恐らくは、何処かの旅行社等に申し込んでの山行をなさるのであろう。あるいは、山岳会に属している方も中にはいらしたかも知れない。
まあそれはそれで、それぞれの山の楽しみ方があるから良いんでしょうがね。


地下鉄の車内で無意識に老若男女の顔を眺めていると不思議な気持ちになった。何故かミニスカートのお姉さんよりも、老人達の姿に自然と視線が向いた。
彼等の多くは、この巨大な街で現実に毎日生活している人達だろう。よく見ると私のような旅行者とは明らかに違う表情をしている。私もこの先、平穏無事に生きながらえることができたなら、何年か後には確実に老人と呼ばれる世代を生きることになる。一体そのときにはどんな思考回路ができ上がっていて、どんな価値観を持って生きているんだろうかな、などと彼らの顔を眺めながら考えていた。

個々の人間が生きる時間なんて、巨大な時空の流れから見れば、ほんのわずかな瞬きに過ぎない、けれど個々の中にも小宇宙は存在し時を刻む。それぞれには当然一つ一つ違う個性があり、賦与された目印に従いそれぞれの道を歩んでいく。その結果については、最期の時が来るまで分からないし、今は知りたいとも思わない。

いろんな思想や宗教、哲学、社会学などに普遍的な物など存在しないし、極論だろうが、「歩き続ける」か「止まる」以外の選択肢しか今は思い浮かばない。それとも、「それ以外の何か」が存在するのだろうか。
残念ながら今の私には見えない。
周りを見回すことはできても、それに便乗することなんて出来ないし、私にとってはあまり意味がないことのように思える。

人が自身の未来を計画し確信することは、とても無駄なことだと個人的にはずっと思っていた。人生に於いてフェアネスという言葉が何の意味も持たないのと同じように、すべての人が幸福になることなどあり得ない。けれども人は夢を見、そしてその夢を追い求める。楽しみばかりを見つめ続け、苦しみや悲しみになど目を向けようとしないのは、人間が神から授かった美徳の一つだと思う。


地下鉄の車内や駅舎ですれ違った人の多くは、携帯電話を巧みに操り、デジタルプレーヤーからの音をヘッドフォンで聴きながら、外界から浮遊し自分の世界を構築している。画面からの情報で友人や家族のことを、あれこれと考えているかも知れない。目的地までの到達時間に苦痛を感じているのか、それとも楽しんでいるのか、あるいは、ただぼんやりしてるだけなのか。
ただじっと目を閉じ眠っているように見える人や、本や新聞をひたすら読んでいる人、等々。

地下鉄の車内では、気晴らしに外の景色に目をやることも出来ないし、これと言って特段やることなどないのも事実だろうが、皆、時計が速く進むように祈りながら過ごしているような気がした。別の角度から見ることができたならば、もしかして時が止まっていたのかも知れない。人の心の中なんて覗けるはずもないし、他人が理解できるものでもないのだが・・・

でも、一つだけはっきり確信できることがあった。
隣に並んだ人とおしゃべりしてる人は置いといて、ほとんどの人達は隣や前の人のことなんて見てもいないし、考えてもいないことだ。まるで他人を路傍の電柱みたいに扱っているように思えた。ただそこに存在することを無意識に認識しているだけに過ぎず、ぶつかったり、変な刺激をしないかぎり、自分にコミットメントすることはないと確信しているかのようだ。
あるいは意識的に無視しているのかも知れないが、私のようにキョロキョロと辺りをうかがっている人は、防犯関係者や犯罪者以外いなかったと思う。

もっとも、見ず知らずの隣の人と、初対面で友達のように話せる人なんて、そうざらにはいないのだろうが、中にはそんな人がいても良いような気がする。
でも気味悪がって誰も近づかないのかなあ・・・(山には良くいるんだけど)

不思議なことにこのような世界で生活している人の一部(あるいは多く)が、あちこちの山に登山靴を履いて出かけるのだ。ヘッドフォンで音楽を聴きながら歩いている姿に出くわすことも稀ではないが、皆さん初対面だろうが、いたって気楽に挨拶し言葉を交わす。そして多くの人達は他人に親切だ。キャンディやクッキーなんかを気軽にどうぞと差し出すことなんて決して珍しいことではない。山をやらない人が見たら多分、面食らうというか逆に警戒するのではなかろうか。子供達に学校では、いけないことと教育している。

山に泥棒はいないと言ったのは過去の話で、今では山で防犯グッズを使う人も結構増えてきた。ちょっとそこのピークまで空身で往復と、荷物を置いて出かけることなんて山では良くあることだが、何年か前から他人がデポジットしたザックを持って行ったり、金目の物だけごっそり抜いたり、もっとひどいのは目当ての物を盗ったら後はザックごと谷に捨てるなんて輩もいる。避難小屋の協力金を入れ物ごと持って行くのもいるし、もう数え上げたらきりがないくらいそう言った事例は見聞きしてきた。

山は「来る者」には寛大だ。分け隔てなくすべて受け入れてくれる。来る者は拒まずなのだ。もしこの世に平等や公平という概念が存在するならば、山に入る者に山は公平かつ平等だと思う。当然、悪いことをしようと入る人達にも分け隔てない。
以前、ある山小屋の管理人さんから伺った言葉が妙に頭の隅に残っている。
「ここにやって来る人の99%はとても良い人達だ。けれどもほんの少しだけ、どうしようもなくとんでもない奴らもやってくる」
人は山に苦しい思いをして何を求めにやって来るんだろう・・・

地下鉄の車内でふと思った。都会の電車の中と山の中の違いを本当に理解している人が、都会からやってくる登山者の中にどのくらいいるのだろうかと。
百人中百人全員理解しているかも知れないし、もしかしたら、たった一人だけかも知れない。
人間は限りない欲望を持つ。人は山で必要な何かをとりあえず手に入れたら、鮭のように来た道を正確にたどり、山を降りて街に帰る。

しかし帰る時の山は、やって来た時とは往々にして違う顔をする時がある。いつ気が変わるかなんて誰も分からないし、赤ん坊のようにまるで気まぐれだ。
去る者を追う山は、しつこくてとても怖い。いっそ悪いことをした人だけ追っかけてくれるのならまだ救われるのだが、そんな都合の良いことは望むべくもない。
それが山の持つ、公平・平等という概念の本当の姿だと思う。
都会の電車の中のようにヘッドフォンをしてるとエライ目に遭うのだ。