【音楽の話・雑感  その1】

近所の庄内町に「響ホール」が開館してからジャンルを問わず機会があればホールに通うようになった。とてもリーズナブルで質の高い音楽を多く提供して頂き感謝している。(ここの音響は本当に素晴らしいです)

ここに通い出してから素人ながらクラッシック音楽の魅力に完全に取り憑かれてしまった。オーケストラはもちろんのこと、ピアノ、ギター、フルート、ヴァイオリン、ハープ、ホルン等のソロコンサートやアンサンブルはとても魅力的である。こと音楽に関して専門的な知識などほとんど無い私でも、とにかく聴いていて十分楽しいしまた何度も素晴らしい感動を与えて貰っている。

アンプを通さない生の音を聴く機会などこのホールができるまでほとんど無く、以後やみつきとなり今は完全にはまっている。最近酒田でも市民会館が建て替えられ「希望ホール」という素晴らしいホールが開館したのはとても嬉しいことである。

生音の演奏会というのはそのホール独特の響き具合に依存するところが大きいと思う。実際プレーヤーの方達からも同じ意見を持っているという話を何度もお聞きした。そういう意味に於いて庄内地方は良いホールに恵まれている。

特にオーケストラの音を直接聴く機会なんて田舎に住んでいると滅多にない。しかし、山形には山形交響楽団という素晴らしいオーケストラがあり、数年前から庄内でも定期公演を聴くことができるようになった。毎回酒田で開催の折りには楽しませて貰っている。

オーケストラもいろいろあって、ウィーンフィル等の世界的有名楽団は別格として(私のような貧乏人にはまず聴く機会がない)日本国内ではN響、読売日響、都響のいわゆる御三家を初めとして、プロオーケストラは23あるそうだ。またそのメンバーになれた人たちは実に素晴らしい実力とキャリア、それに強運の持ち主だという話を聞いたことがある。

日本にはおよそ70くらいの音楽を専門にした大学があるというが、毎年の卒業生が日本でプロのプレーヤーを目指すとすれば、オーケストラの数を考えたらとんでもなく狭い門だということは容易に想像できる。

オーケストラメンバーのほとんどは、3〜5歳ぐらいから本人の意志とは関係なく(中には本人の意志で)英才教育を受けてきた人たちの集団な訳で、個々の芸術家の個性をまとめ上げるだけでもすごいことだと思うが、聴衆に感動を与えないと(これが一番難しく重要なこと)オケの存在意義すら認められないのだ。
プロとはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが、考えるだけで気が遠くなる。

実際その演奏を目の当たりにすると音楽の素晴らしさは当然として、いろんな事物が頭の中を駆けめぐるのだ。涙が出ることも珍しくない。メディア等では現代の最先端の楽器を奏でる人達の演奏を耳にする機会のほうが圧倒的に多いが、楽曲でなく演奏自体に感動する事は一部を除いて珍しいことではないかと思う。

クラッシックの演奏会で初演というのは無いこともないが、百年以上前に作曲された曲を聴くのが常だ。私も以前は敷居の高さを感じたものだが、聴き始めると理屈じゃないことがよくわかる。要するに私のような素人は、聴いて心に何か少しでも残るものがあればそれでよいのだと最近は思っている。そう考えると初めて耳にする曲でも展開が楽しみだし、逆に何の先入観も持たずに聴く楽しさも出てくる。

私らが子供の頃(田舎育ちです)、誤解を恐れずに書けば、音楽なんて男のやるものでないという風潮があった。中学のブラスバンド部には圧倒的に女の子が多かったし、そこに入るのには勇気が必要だった(ただ単にシャイだっただけか?)
実際オーケストラというものに初めて接したのは高校のスクールコンサートでの山響だったと記憶している。失礼ながら大して印象に残っていないのが本音であるが、当時はフォーク全盛期、誰もがギターを持ちジャガジャガと掻き鳴らし歌っていた。そう言う意味では基本的に今の時代とそんなに変わらないのかな。

最近何十年か振りで渋谷の街を歩いた時、NHKホール前でギターを掻き鳴らし歌っている若者を見た。暇だったので何気なく聴いていたら思いの外楽しく、ギターケースに百円でも放り込もうと財布を見たら一万円しかなかったので、もったいないのでやめた(ケチで結構)。
要するにきっかけなんてこんなもんだと思う。渋谷の若者達が今後どのような人生を送るかなんて想像すらできないが、その傍らに音楽があるか無いかではまるっきり違う人生になるような気がする。
ジャンルにとらわれず何でも貪欲に聴いてみようと思うこの頃である。音楽はやっぱりライブが最高である。